1999年5月の高原日記

  

1999-05-02(日)  快晴   ヒュッテ

ヒュッテの隣家の猿谷さんから、両家の間のモミの木を切りたいと言う申し出があった。
・・・・話を聞いてみるとこうである。
・・・・隣家宅で、この地(松原湖高原別荘地)に家を建てた当時は、まだ小さかったモミの木が今ではスッカリと大きくなってしまい、以前は明るかった庭の雰囲気がスッカリと暗くなってしまった。
・・・・そこで、その暗さを吹き飛ばす為にモミの木を全部切り倒し、あとに残った白樺を育てて、庭を明るい雰囲気をもつ白樺林にしたいと言う話である。
・・・・もとより、僕に異論の有るはずが無い。

僕は針葉樹があまり好きではない。
もし、建築材でお世話になっていなければ、
「針葉樹なんて大嫌いっ!!」
て、叫んでしまうかも知れない。

・・・・と言うのは、針葉樹林が醸し出すあの陰気な雰囲気と、小動物が少ない無味乾燥さが、どうも僕のオッチョコチョイな性格に合わないらしいからである。
・・・・では何故、その針葉樹林が僕にとって、陰気な感じがするのかを考えてみると、僕自身にもよく分からないのであるが、どうやら、次のような理由がその根拠になっているような気がしてならない・・・・・・・

曰く。
まず、第一にカラマツを除けば、針葉樹の殆んどが紅葉をしない。
・・・・第二の理由としては、蝶の幼虫は針葉樹の葉を食べないため、針葉樹林には大好きなチョウが棲息をしない。鱗翅目で針葉樹林に棲息するのは蛾だけであるという事。
・・・・第三の理由としては、美しい花が咲かない・・・・・
・・・・第四の理由としては、針葉樹林には動物や鳥類が少ない・・・・・
等々、チョット考えただけでも、幾つかの理由を挙げることが出来るのである。
まあ、こんな事が理由となって・・・・どうやら、僕は針葉樹林を敬遠しているようである。

ところで、松原湖周辺の山を歩いてみると、広い範囲の林がカラマツ林に覆われているのに気が付く。
「なぜ、こんなにカラマツ林が多いのだろう・・・・?」
と、不思議に思って、町の古老に聞いてみたら、
「・・・・もともと、この辺一帯は、雑木林に覆われていたが、戦時中から戦後にかけ、”カラマツは成長が早く、建築材としても需要が増えるだろう・・・・”という考えに立って、雑木林を切り開いて大量のカラマツを植林した・・・・」そうである。

そんな事があったせいか、松原湖高原にはカラマツ林がとても多いのである。

・・・・そこで・・・・もともと、針葉樹林が余り好きでなかった僕は、ことある度(たび)に
「なんだって、お金になる木しか植えないんだよ!!・・・・・大体、お金が神様になっちゃってるから、林がみんな不気味で不愉快な林になっちゃうんだよ・・・・・!!」
等々、口をトンガラセテ文句を言いつつ、わが家の庭にブナの幼木を植え、
「雑木林を復活させよう・・・・!!」運動を起こそうと思っていた矢先である。
隣家からの申し出に、僕は大喜びで飛び付いて、こう言った。
「・・・・もし、切り倒したカラマツを薪にしていいのなら、僕が切りますよ・・・・」
・・・・
ウヒヒヒヒヒ・・・・
この瞬間、僕が考えた事はつぎの通りである。
 ●針葉樹を切り倒せば、針葉樹林が少なくなる。
 ●針葉樹を伐採すると、あたりが明るい雰囲気を持つようになる。
 ●針葉樹を切り倒す事は、広葉樹が増える可能性があることにつながる。
 ●針葉樹を伐採したあと、雑木林が増えれば、小動物・鳥類・昆虫類が増える。
 ●雑木林が増えると、夏は涼しく爽やかな日陰ができ、冬は暖かい日溜まりが出来るようになる。
 ●屋根の隙間に針葉樹の落ち葉が溜まらず、屋根を腐らせたり傷めたりすることが少なくなる。
 ●・・・・副産物として、薪がたくさん出来る。
・・・・という事で、僕が隣家の周囲に生えているブナを伐採し、薪にするという約束が出来ることになった訳である。
・・・・メデタシ、メデタシ。

さて・・・・
嬉しくなった僕は、夕方、隣家から申し出のあった伐採予定のモミの木を見て回った。
・・・・ところがである。
モミの木は、ホントに大きく成長しているため、ウッカリ伐採すると、電線・電話線に引っ掛かって線を切ってしまったり、場合によっては屋根や樋(とい)などに向かって倒れ、家を傷つけてしまう可能性があることに気が付いたのである。
・・・・アチャー
「ヤバイ〜〜〜〜家を傷つけたらドウシヨウ〜〜??」
・・・・僕は段々と不安になってきた。

・・・・でも、いつまで考えていても埒(らち)が明かない
暫く考えていた僕は、
「エーイ・・・・一人で考えていてもショーガネエ・・・・また、明日にでも猿谷さんと相談しべえ・・・」
と、思い直した。
猿谷さん一家は、良識有る、善良な方々である。
・・・・必ずや、色々と協力して下さる事と思いまーす・・・・・・!!!!!!!

  

1999-05-03(月)   快晴   ヒュッテ

朝食のあと、隣家のモミの木を見て回り、一本一本のモミの木をどの方向に倒すのが一番いいかを考えていたら、散歩から帰って来た猿谷夫妻と顔を合わせた・・・・
「お早うございます」と夫妻。
「お早うございます。・・・・チョットよろしいですか・・・・きのう、お話をしたモミの木を切り倒すことですけど・・・・」
と、前置きをして、大きなモミの木を伐採する時は、家や電線を傷つけない方向に木を倒したいので、手を貸して頂ければ・・・・と話をすると・・・・
「ええ、勿論です。我々の手が必要な時は、遠慮無くおっしゃって下さい・・・・」
「・・・・それから、私どもが、コチラに来た方がよい場合には、その旨おっしゃって頂ければ、出来るだけ、東京から駆け付けるようにしますので・・・・」
との事。
・・・・やはり、昨日、僕が思った通り、猿谷夫妻には色々と協力して頂けそう・・・バンザイ!

ここまで来れば、後は、実行あるのみ・・・・有難い事である。
「ヨーシ、やるぞーーーー!!」

  
午後 2 時半。
昭ちゃんと中久木さんがヒュッテに来訪。
昭ちゃんは、八ケ岳山麓の”溝の原”という小さな部落に住んでいる兼業農家の大黒柱で、中久木さんは神奈川県で学習塾を経営しているナチュラリストである。
・・・・今回我々三人が集まったのは、昨年のゴールデンウイークに引き続き、第2回の「小海町ちょうの会」の年次総会を開催するためである。
・・・・「ちょうの会」のちょうとは、蝶のことで、要するに、自然の中をパタパタと飛んでいる、あのチョーチョの事である。

この「ちょうの会」の名称は仮称で、未だに正式な会の名前ナンカは存在しない。
・・・・それから・・・・この会の目指すところも、一応、”小海町の蝶と自然を守る”と言うことになっているようだが、それすらも、全員で討議したわけでもなく、ただ何んとなく、そういうことになっている・・・・という程度のものである。
・・・・要するに、ブッチャケテ言うと、
「懇談会の一歩手前・・・・茶話会にチョット毛の生えたヤツ・・・・!!」
と思っていただければ、まあ・・・・当たらずとも遠からず・・・・と言うところではないかと思う。

さて、実態が懇談会の一歩手前の会だから、話題は”何んでもあり”・・・・である。

・・・・今日の懇談会も、最初のうちは、長野県の天然記念物に指定された蝶・ヒメギフの生態系・絶滅したクロツバメシジミ・・・・等々、「ちょうの会」の名称にふさわしい議題が討議されたが、途中で話が釣りの話題にチョットだけ触れたトタン、中久木さんが
「きのうは 35cm のイワナを 2 匹あげてね・・・・!!」
「イヤー今朝は、40 cmくらいのヤツを上げようとしたら、針が折れてしまって・・・・!!」
等々と、怪気炎を上げ始め、これも渓流釣りが大好きな昭ちゃんが相槌を打ち
アッと言う間に、「ちょうの会」が「渓流の会」に変身する始末。

最後には、僕が中久木さんを明日の卓球の練習に誘ったところ、昭ちゃんも
「ア、卓球だったらオレも行く・・・・」
と、「渓流の会」が今度は「卓球愛好会」に再三、変身して「第2回小海町ちょうの会」は無事、幕を閉じた・・・・・。

全く、山間(やまあい)の小海町、松原湖高原は平和である!!!!!!

        

1999-05-04(火)  曇   ヒュッテ

午後 3 時。
千曲川の川向こうの山間(やまあい)の親沢部落着。
去る 4 月 16 日(金)に、アルルの「みや書店」で見付けた「雑草の数学」の著者、井出敏章(としあや)さん宅を訪問するためである。

親沢入口の取っ付きにある諏訪神社のそばの小路に入り、
「ハテ、確かこの辺だったと思うが・・・・・」
と、訝(いぶか)しく思いつつ、付近をウロ付くこと約 5 分。
「この家に違いない・・・・」
と、道の下方の斜面にある家に目星を付け、付近の空き地に駐車をしてから、その家の方に歩いて行くと、小柄な老人が入口の所で僕を待ち受けていた。
「こんにちは、八岳です。・・・・敏章(としあや)さんですか??」
・・・・目が合うと同時に、僕はその老人に声を掛けた。
「・・・・はい!・・・・道がチョット分かりにくかったですか?」
そう言うと、敏章さんは先に立って家の方へと案内をして下さった。

深い谷を見下ろす斜面に建っている敏章さんの家からの眺めは素晴らしい。
秋の紅葉の時期になったら、この家からの眺望はどんなに素晴らしいものだろうか・・・・と、羨ましく思うほどの景観である。

「突然お邪魔して申し訳ありません・・・・」
「いや、よくいらっしゃいました!!」
等々・・・・・
座敷に案内され、お互いの挨拶を済ませ、すすめられるままに大きな炬燵に足を入れると・・・
僕は、開口一番
「ところで、あの”みや書店”で見付けた”雑草の数学”の本ですけど・・・・」
と、イキナリ数学の話に入って行った。

それからの約 2 時間。
僕は敏章さんに質問のしどおしであった。
・・・・と言うのは、アルルの「みや書店」で”雑草の数学”を見付けたその翌週、書店のオバチャンから、敏章さんは小学校しかでていない、という事を聞いており、その敏章さんがどのようにしていわゆる高等数学までを習得したかに非常に興味を持っていたからである。

以下は、それからの 2 時間の間に聞いた敏章さんの数学放浪記である。


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微積はおろか相変法の大著を出版した82才の数学者、井出敏章さん。

敏章さんは、小学校を卒業してから、間もなく大工の見習いの仕事を始めた。
年号が大正から昭和に代わって間もなくの頃である。
・・・・それから、8 年ほど経った 20 才前後の時の日給は 80 銭。
その仕事も、必ずしも毎日あった訳ではなさそうである。

そんな或る日のこと、増産を始めた中嶋飛行機から大工さんの求人があり、敏章さんもその試験を受けたそうである。
「なぜ、中嶋飛行機は大工さんを雇おうとしたんですか??」
と聞くと、敏章さんは
「大工だったら、手先が器用だから何か役に立つと思ったんじゃないですか・・・・」
との事。
試験は、脚の先が開いた四つ足のイスを作る事だったとか・・・・・
話を聞いてみると、このイスはどうも、昔のオソバ屋さんにあった、あの脚の先が外側にキュッと反った、あのイスのようである。
・・・・成る程、あのイスならチョットむつかしそうである。
だが・・・・幸いな事に、結果は大勢の受験者の中から選ばれたベスト 3 人の中の一人・・・・採用後の日給は1円25銭・・・・今までの日給の 50% 増しになったという事である。

「入社してみると、仕事の内容は、実物大の戦闘機の翼の図面引きなんです・・・・」
と言って敏章さんは話を続けた。
 実物大の戦闘機の翼の曲線を引くと言うのは、実に大変で、大のおとな数人が一組となって曲線を引いたそうである。・・・・それでも、キレイな曲線を引くのが大変な為、敏章さんはヒモを使って描く半径十数メートルの円弧を利用して曲線を描く方法を考え出し、その考案が成功して以来、従来数人の人手を必要としていた曲線引きの仕事が一人の人手で出来るようになった・・・・という事である。

そんな事が認められてか、色々な計算を必要とする技術関係の仕事に段々と従事するようになり、連立方程式から始まり、二次方程式、三角関数、微分、積分、微分方程式・・・・等々、と・・・・航空機設計の実際の計算で使用するために、難解な数学をコツコツと独学で勉強していった・・・・という話である。
・・・・僕は、本当に感動して敏章さんに質問した。
「それは、本当に大変だったでしょうね・・・・三角関数ひとつをとっても・・・・」
「ええ、それは、もう・・・・Sin, Cos, Tan ナンテ言っても、全く初めて聞く言葉でしたから」
「でも・・・・そう言った事は、誰かが教えてくれたんですか?」
「いえ、誰も・・・・ 自分で参考書を買ってきて、全て独学です・・・・」
「誰かに、質問することは出来たんですか・・・・・?」
「ええ、それは出来ました。質問をすれば、キチンと教えてくれました・・・・」
「・・・・と言うことは、質問をしなければ、誰も何んにも教えてくれない・・・!!」
「ええ、そうです・・・・」
「そういった勉強はいつしたんですか?」
「夕方、仕事が終わって家に帰ってからです。・・・・仕事が終わると、皆んな遊びにいきましたけど、自分は家に帰って勉強しました・・・・」
「それで、その後はどうなっちゃったんですか?」
「最後の頃になると、技術将校の下で仕事をするようになりましたけど、その当時が一番数学を勉強しましたね・・・・でも、それも長くは続きませんでした。・・・・と、言うのは、終戦と同時に、軍需産業が全部なくなってしまい、我々も散り散りバラバラになってしまったからです・・・・」
「でも・・・・戦争が終わってからも数学は勉強したんでしょう?」
「ええ、戦争が終わってからは、大工の仕事を始めましたので・・・・こんどは、強度計算に関する数学を色々と勉強しました・・・・」
「大工さんで、そんな計算が必要なんですか?」
「ええ・・・・コンクリート建築もずいぶん手掛けましたから・・・・チョッとお待ち下さい」
と言ったかと思うと、敏章さんは奥の部屋から分厚い強度モーメントの「計算便覧」と「相変法」という 2 冊の本をもって引き返して来た。
「計算便覧」の方は、或る建築材に荷重が与えられると、どの程度の撓み(たわみ)が発生するかという事例集。
「相変法」の方は、地震などの力が建築物に加えられた時、どの程度の太さの部材を使えば、その地震に耐えられるか・・・・を計算する例題がビッシリと掲載されている本である。
・・・・チョット考えれば、すぐ分かる事だが、実際の建築に当たっては、前者の「計算便覧」よりも後者の「相変法」の法が遥かに役に立つはずである。

・・・・僕は、この「相変法」という本の所々をパラパラとめくって拾い読みをしてみたが、本当に立派な本である。
「ウーン!!」
僕は、この本の素晴らしさに思わず唸り声を上げてしまった。
そして、更に・・・・この「相変法」の著者が敏章さんである事を知った時の僕の更なるオドロキ・・・・!!
・・・・全く、再度の「ウーン」である・・・・!!!!
しかも、出版社が手堅さで知られるあの丸善である。

「敏章さん、この本を書くのに 10 年は掛かったでしょう?!」
と聞くと、敏章さんは
「・・・・10 年では、とても書けません」との事。

敏章さんは、こういった人だったのである。
最初、アルルの「みや書店」で”雑草のような数学”の本を読んだ時から、僕はこの敏章さんがどんな人だろうかと、深々たる興味をもっていたが、敏章さんがここまで勉強している人だったとは、想像だにもしなかったのである。
・・・・しかも、更に物凄いのは、我々のように学校で先生について平平凡凡と数学を学んだのではなく、全て必要にせまられて勉強した・・・・という事実である。
・・・・・
・・・・・
質問に継ぐ質問
・・・・・
・・・・・
僕は、もう本当に夢中になって色々な質問を浴びせ掛けた。
・・・・・
でも、夢中になっている時の時間が経つことの早いこと。

ふと、気が付いて、時計を見ると、もう 5 時過ぎである。
(イケネエ、もう家に帰って、夕食の準備をする時間だあ!)と気が付き
「・・・・今日は本当に有り難う御座いました・・・・それでは、この辺で失礼させて頂きます・・・・」
と挨拶をして帰ろうとすると、敏章さんは真新しい「相変法」を一冊取りだして来て、
「今日の記念に・・・・!!」
と言って、下さったのである。

僕はとても嬉しかった。
・・・・こんな立派な数学者が、この小海の町に住んでいて、その方から、生涯の最高傑作の著書を戴いたことが・・・・・・!!

「どうして、皆さんは、僕にこんなに良くして下さるんだろう・・・・」
親沢から千曲川に向けて下る坂道を運転しながら、僕はしんみりとして呟いていた。

  

夜 7 時半。
公民館に卓球の練習に出掛けたら、きのう約束した通りに、中久木さんと昭ちゃんがやって来た。
・・・・僕達はすぐに皆で卓球台を四台準備すると・・・・各台二人づつに分かれて・・・・中久喜さんは津金さんと、昭ちゃんは僕と・・・・練習を始めた。
「では、お願いします・・・・」
とお互いに挨拶を交わして、昭ちゃんとフォア打ちを初めてみると、オドロイタことに昭ちゃんがとても上手なのである・・・・・。
・・・・カットした球もガンガン打って来るし、ツッツキも切れた球が帰って来る。
昭ちゃんも、スマッシュされた球に対する僕の返球が逆回転なのに、少しオドロイタようである。
(実力は、伯仲という所か・・・・??)
僕達二人は、夢中になって大声でワイワイいいながら、1時間ほど練習をしたが、昭ちゃんより 15 才ほど年上の僕がスタミナ切れで、途中でダウン。

僕は壁際のイスに戻って休憩することにしたが、まだ元気な昭ちゃんは、今度は皆に誘われて男女が組みになるミックス・ダブルスの試合を始めた。
・・・・それから約 30 分、9 時半の練習終了時に昭ちゃんに聞いてみると、スコアは一勝一敗だったとか・・・・
一緒に試合をした女性達も面白かったようである。

・・・・公民館の玄関を出るとき
「また、来て下さい!!」
皆んなに、そう言われて、昭ちゃんはいつものように、ニコニコして帰って行った。
昭ちゃんが、皆んなと気が合って、僕はとても嬉しかった。

・・・・中久木さんは、あした神奈川に帰るとか・・・・
こんど会うのは、来年のゴールデンウィークなのだろうか?????

  

  

1999-05-27(木) 雨

この間、トルコから帰って来てから、あんなに嫌いだったトルコ陸軍の行進曲の CD をヒュッテで流しっぱなしである。

トルコ陸軍の行進曲というと、ときたまテレビで目にする、あのオスマントルコ時代からの、太鼓とチャルメラのような音をだす楽器で演奏する

    ドン、ドン、ドンカラカッカ、ドン、ドン、ドーン
    ビービキビッピ、ビービキビッピ、ビービービー

と言うアレである。

見ると、見ないとでは大違い・・・・という諺があるが、今の僕はこの諺の真髄をイヤというほど味わされている。
・・・・と言うのは、日頃から
「日和見主義で、節操がない僕・・・・!!!!」
という自己レッテルを貼っている僕だけど、今回のトルコ旅行の前と後では、その落差が余りにも大きすぎるからである。

まさに
「ウッヒッヒッヒ・・・・!!」
というウス馬鹿のウス笑い以外に、対応の仕方を知らない最近の僕である。

エヘヘヘヘヘ・・・・・

***************

夜。
二階の窓から首を出して外を眺めたら、昼間の狂ったような雨と風はスッカリとあがり、晴れた夜空に月と星が美しく輝いていた。
・・・・トルコの国旗のような月と星である(どう? この気狂い加減・・・・!!??)
・・・・その所為かどうか分からないけど、馬鹿にキレイに見えると思ったら、ヒュッテの近くの街灯の明かりが消えている。

以前から、星空を眺めるのに邪魔でウルサイ街灯だと思ってたから丁度いいや。
別荘の管理棟には報告しないで、このままソーッとしておこう・・・・っと!!

  

1999-05-30()  快晴   ヒュッテ

ここ暫くの間、トルコ旅行の日記を英語でつけているので、いささか大変である。
事の始めは、トルコに行った際、現地で色々な人と出会い、デジカメで写真を撮ったまではいいのだが、その後で、ついついその人たちの優しさと人懐こさ(ひとなつこさ)が嬉しくて、インターネットにアクセスしていると言うトルコ人に僕のサイトの URL を渡し
「今日撮った写真は、日本に帰ってからホームページにアップロードするので、見て下さい」
などと、余計な事を口走った為に、その事が足かせとなってしまったのである。

英語で、自分の考えを書くということ自体は、それほど嫌いではないが、大勢の人達の目に僕の拙い(つたない)英語が晒されるとなると、いささかギコチナサと不安を感じる。

・・・・その理由は、まず第一に、いつものように日本語の日記の中に英語の文章を20〜30行入れるだけなら、日本語と英語であるていど自分の考えを纏め、一回か二回大雑把に読んでみて、大体意味が通じれば
「オッケー、オッケー、これでいいや」で済んでしまうのだが、今回のように旅行記を始めから終わりまで英語で書くとなると、今迄そういった経験がないばかりに、何にか・・・・こう、座り心地の悪さを感じるのである。

要するに、手っ取り早く言ってしまえば、英語力に自信が無いというだけの話なのである。

だから、インターネットに接続して、自分のホームページに接続するたびに、”A 10 days' trip to wonderful Turkey”を読んでみて、
「あっ、イケネエ! ここにも間違いがあらあ・・・・!」
などと言っては、毎日のように、あちこちの文章の手直しをしているのが現状である。

つい、この間も5月15日の日記を読んでいる最中に、
”・・・・・the plane took off and headed towards Istanbul.”なる文章を見付け、
「アチャー、ヤバイよ、こりゃあ!! ナンタルチアの 3 乗だ!!」とばかりに
towards を for に直したばかり・・・・
・・・・その外、気をつけてみると、アチコチに網の目のほころびが目につき、その度に次回にアップロードをする原稿の手直しをしているのが実情である。

全く、こんな文章を和市さんが読んだら、何んと言うだろうかと、腋の下に冷や汗が出る想いである。

ウヒヒヒヒ・・・・乗り掛かった舟とは言え、慣れないことはやるもんじゃないよねえ!!


  

 

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