1998 年 7 月の日記

1998-07-03 (金) 晴  ヒュッテ

 聞くところによると、高原美術館の須田剋太の絵が全部外されて、収蔵庫に入れられたと言うことである。外したのは、絵の持ち主の O 氏とのこと。

 外した理由と言うのが、「この美術館の内部の温度と湿度は、絵の保存上よろしくないので・・・・」と言うことらしい。
 ・・・・だが、漏れ聞いたところによると、O 氏の絵の取り外しの本当の理由は、同氏が町の議会に出していた
 「生活費として、月々50 万円を支給して欲しい。現在、美術館で勤務をしている人達と反りが合わなので、この人達を美術館以外の職場に異動させて欲しい・・・・」
 等々の、常識を逸脱した要求を町議会に提案したところ・・・・町の議会側がその提案を受け入れなかったばかりか・・・・
 「年に 3 ケ月程の間、町側の独自の意向で企画展を行ないたい」
 という、至極当たり前の町側の逆提案が、 O 氏の気に入らなかったという事らしい。

 O 氏は、絵を取り外しながら
 「誰が止めても、私は絵を全部外して、倉庫に入れてしまうぞ!!」
 と喚き散らしていたらしいが、誰も
 「まあ、そんなに怒(いか)らないで・・・・」
 と間に入らなかったばかりか、むしろ、
 「ご自分の意向でなさるのでしたら、どうぞどうぞ・・・」
 と半ばあきれ顔で放って置いたという事である。

それにしても、「事あるごとに町側に金銭の出費を要求してくる」と巷間で噂されている、この O 氏という人は、何と淋しい人だろうか!!

     
      

1998-07-05(日) 曇のち晴  ヒュッテ

或る筋からの話しによると、今日、須田剋太の画の持ち主が関西の方に帰ってしまったとのこと。
・・・・話しの詳細はよく分らないが、おととい須田剋太の画をみずから取り外した O 氏は、その後、町の上層部とまたまた衝突し、色々と自分勝手な事を放言した末、最終的に自分の言い分が通らないのに業を煮やし、
「・・・・それならば、俺は小海町から引き揚げるぞ・・・・・!!」と、脅しを掛けたところ、町の上層部から
「分りました。それでは、どうぞお引き取り下さい」と言われて、本日、関西の方に引き揚げてしまった、と言うことである。

この話しの真偽の程は、よく分らないが、もし、この話しが本当だとすれば、こんなに嬉しい事はない・・・・・と言うのが、僕の正直な気持ちである。

ところで・・・・・
ここでひと言つけ加えると、過去一年ほどの間、僕がこの町の中で語り合った何十人もの人達の中で、この O 氏の事を褒めた人は、ついに一人も居なかった・・・・のである。
だから、この「須田剋太の絵画の持ち主、関西へ引き揚げ」の話しをこの町の人達が聞いたならば、間違いなくほぼ全員が大喜びをするのではないかと思う。

まさに、よかった、よかった、ホントによかった!!・・・・・である。

1998-07-15(水) 雨  自宅 - ヒュッテ

午前中、お盆の墓参り。

午後 5 時半、中野発。松原湖へ向かう。
途中、物凄い睡魔に襲われる。

居眠り運転をしそうなので、藤岡の S.A. で、仮眠をとる。20分ほどの積もりで眠ったら、アッと言う間に、1時間ほども眠っていた。

22:30 ヒュッテ着。
お陰様で、普段は 3 時間半くらいしか掛からない道程を今日は 5 時間も掛かってしまいました。・・・・オヤ、オヤ、オヤ、のオヤでした。




1998-07-21 (火) 晴  ヒュッテ

午後、ヤナショーホームに電池を買いに行き、レジで代金を払おうとした時、僕の目の前を大きな蝶の影がスーッと走るのに気が付いた。
「おや・・・・・?」と思って良く見ると、それは何と・・・・過去20年間、いつかは採りたいと思っていた・・・・
「げえっ、オオムラサキだあ・・・・」では、ありませんか!!

その瞬間、僕は大声で叫んだ。
「網、網、網、虫採り網を貸してよッ」
・・・・幸いな事に、ヤナショーには、売り物の捕虫網が沢山ある。

アルバイト(?)の若い女性が差し出した売り物の捕虫網を握り締めると、僕はオオムラサキが飛んで行って壁にぶつかったあたりに急行した。

「確かに、この辺だ」僕は、オオムラサキが壁に当たって忽然と見えなくなった商品の陳列だな付近を、懸命に探し回った。・・・・だが、何処をどう探してみても、オオムラサキは、見当たらないのである。

・・・・20 分ほど捜索の無駄な努力をしたあと、僕はレジにいたサナエちゃんに虫採り網を返しながら、低い声でこう呻(つぶや)いた。
「クソッ、何処に消えちめえやがったんだ?」
すると、サナエちゃんは
「あら、さっきのチョウチョなら、この辺をずっとクルクルと舞っていたんですよ・・・・」
「ホントかよ? クッソーッ、悔しいねえ・・・・」
「でも、わたし、あの蝶を大きな蛾(が)かと思っていたものですから・・・・」
「あれが蛾かよっ!!あれは、絶対にオオムラサキだって!!」
「あら、そうなのオ!!」
サナエちゃんは、驚いてそう言うと、僕の目を覗きこんだ。

でも、流石(さすが)に小海町である。ヤナショーの店の中をオオムラサキがずっと舞っていたと、言うのだから!!

    
       

1998-07-22(水) 曇り  ヒュッテ

この間から、山の林の日陰にキレイな花が咲いているのが気になっていた。
直径 5cm ほどの花で、橙色の 5 枚の花びらがある。

とても素敵な花なので、欲しい欲しいと思っていたら、昨日、山の林の中の一本道の道端に固まって咲いているのが目に入った。
・・・・それで、今日の夕方、その中の一株を戴きに行ってきて、庭のヤマハンノキの日陰に植えてやった。
夜、野草の図鑑で調べてみると、フシグロセンノウと言う花であることが分った。

毎年、キレイな花が咲いてくれるといいのだが・・・・・・・・

     

      

1998-07-24(土) 晴  ヒュッテ

町に行ったついでに、ヤナショーに寄ったら、店の入り口で店長のタカシさんが、僕の顔を見ると手招きをした。
「何あに・・・・?」と僕。
「オオムラサキなんだけど・・・・・・」と、店長。
「えっ、オオムラサキ・・・・??」
「ええ、サナエが八岳さんに渡してくれって・・・・」

・・・・話しを聞いてみると、一昨日のオオムラサキ騒動のあと、暫くすると、店内の何処かに姿を隠したオオムラサキが、再び店内を飛び始め、 サナエちゃんが捕虫網で捕まえた・・・・と言うことだった。
・・・・・・ところで・・・・・・僕が目の玉を三角にして、この蝶を追いかけ回していたのを知っていたサナエちゃんが、
「生きているうちに八岳さんに渡したい・・・・・!!」
と言って、何回か我家(ヒュッテ)に電話を掛けたが留守だった・・・・と言うことである。

店の中に入ると、タカシ店長は捕虫網の中に入っていたオオムラサキを僕に渡しながら、残念そうに言った。
「生きていると、よかったんだけど・・・・・・」
「大丈夫、大丈夫・・・・・・この状態だったら、立派な標本になるから・・・・・」
僕は、気の毒そうに声を落とした店長さんの済まなそうな言葉を慌てて打ち消した。

でも、僕は本当に嬉しかった。
・・・・だって、過去20年ほどの間に、このオオムラサキ大統領は・・・・・・・姿こそ5、6回ほど。遠くの方から見掛けた事はあっても、小海町の中では、実際に自分の手でアタックしたこともとっ捕まえた事も、一度もなかったからである。
これで、小海町の中で採集された蝶は65種になりました。

サナエちゃん、どうも有り難う!!

     

       

1998-07-25(土) 曇ときどき晴  ヒュッテ

今日、漏れ聞いたところによると、昨夜、町から O 氏宛てに「28 日より、美術館に栗林先生の画を展示します」と、正式に通達を出した・・・・・と言うことである。
「偉いっ!!・・・・・誰だか知らねえけど、よくやった!!」
この日記を書きながら、心から僕はそう思う。
と言うのは・・・・今までは、町が O 氏宛てに何か提案しても、O 氏が大声で喚き散らすと、直ぐに腰砕けになって、オドオドとその提案を引き下げてしまった・・・・とか言う話しを何回も聞かされていたからである。
しかし、しかし、しかし・・・・・実は、本音をいうと・・・・・・今更ながら
「偉いっ!!・・・・・誰だか知らねえけど、よくやった!!」
などと言っているのが、本当は実にオカシナ話しであって、美術館に関しては町側が全てを企画し、その結果を O 氏宛てに通達すると言うのが、正しい姿なのである。・・・・もっとハッキリ言うと、今までのように、美術館関係者が何かを O 氏に提案しても、O 氏が大声で喚き散らすと矛先が鈍って提案を取り下げ、かてて加えて、 O 氏の言うことを町長が追認する・・・・・などと言うことは、絶対に間違っていた事だと僕は思います。


閑話休題・・・・・・・
今冬の町長選挙の前は、新町長に対する色々な批判や噂話が「選挙権の無い」僕の耳にも随分と入って来たものだったが、美術館の問題に関するかぎりは、新町長がこれまで採ってきた態度は実に立派であると言わなければならない・・・・・と思う!!!!!!!

     

     

1998-07-28(火)  晴

今日は、栗林先生の画が高原美術館に展示される日である。

午前10時半、美術館に出掛ける。
C展示室に栗林画伯の画が飾られていたが、こうして見てみると、とても素晴らしいと思う。
以前、この同じ画を町の総合センターで見たことがあったが、展示される施設が異なるとこうも違った画に見えることが、とても不思議だった。

あまり時間が無かったので、ざっと一回りして引き揚げて来たが、とても面白かったので、また時間があるときに、今度はユックリと腰を落ち着けて見ることにしたいと思う。
今回の展示で・・・・・兎に角、今までの画と全く違った画をこの美術館で見られるようになった事に大いなる拍手を送りたいと思う!!!!!

さて、今まで展示されていた須田剋太の画であるが、僕は「須田剋太の画は、須田剋太の画としてとても面白い」と思う。事実、去年の8月、高原美術館で須田剋太の画を初めて見た時などは、夢中になって一つの作品の前に暫く立ち止まって見ていたほどである。
・・・・・そして、松原の喫茶店「樹音」で、ママのA子ちゃんに「須田剋太の画、とても面白かったよ」と言った時、たまたま僕の隣の席に座っていたNさんという人(この人は、あとで高原美術館の学芸員だということが分ったが・・・・・)が、「貴方は目が高い!!」などと大きな声で、褒めて下さったことがあったのを記憶している。

ところが・・・・・である。
須田剋太の画も、面白さにひかれて2回、3回と見ていくうちに段々と最初の感激も薄れ、
「もっと違った画を展示すればいいのに・・・・・!!」
などと、思うようになってきたから不思議である。
・・・・・と言うのは、須田剋太の画は見ようによっては暗さ(当初、僕はその陰影にひかれたのであるが・・・・)を感じさせられるような一面があり、もともとオッチョコチョイの僕の感性などが、須田剋太の作品がもつ強烈なエネルギーに長いこと耐えられるものではなく、
「高原美術館も、何かこう、もっとノビノビとした作品を展示すればいいのに・・・・」
などと思うようになって来たからである。

丁度そのころである・・・・・・・高原美術館でピカソ展が開かれる事になったのは・・・・!!
もともと、ピカソも大好きな僕は嬉しくなって、早速、ピカソ展を見に行ったものである。
「アハハハハハハ・・・・・これは面白い!!」
・・・・・ラテン民族が持つ天性の明るさに触れて、僕は思わず笑いだしてしまった。
「どうだい、この太陽のような明るさと、古代人のような大らかさは・・・・!」
「・・・・もし、あの " 展覧会の画 " の作曲者のムソルグスキーがピカソを見たら、どんな旋律が頭に浮かぶんだろう???」
等々、想像の輪を拡げながら、本当に楽しいひと時を過す事ができた次第である。
・・・・・これも、この時、須田剋太とは全く違った個性を持つ画家の作品に、僕自身が出会うことが出来たことのメリットのひとつである。

話しを元に戻そう。
・・・・・絵画にしろ、音楽にしろ、小説にしろ、およそ芸術作品と言われるものは、みな人間の人格のようなものを持っている。
このことは、我々が、日常生活で色々な人に出会うのと同じで、芸術作品にも「陽気な作品、陰気な作品、深刻な作品、生真面目な作品、静かな作品、うるさい作品」などと言えるような色々な性格を持った作品があると、僕は思っています。
そして、私達が、毎日おなじ人と顔を合わせていると、それがどんなに素敵な人であるにせよ、だんだんとイライラとしてくるのと同じように、高原美術館にいつ行っても同じ作家の作品としか出会えないとするならば、やはり同じようにイライラして来るような作品もあるのではないかと思う。

だから、ピカソ展を見て暫くした或る日のこと、たまたま出会った知人に
「これからも、高原美術館で今回のピカソ展のような色々な芸術家の作品が見られるといいねえ・・・・・・」と言った時、その知人に
「それは、駄目ですね!!」と言われたとき、僕はとても驚いた。
「えっ、なぜ駄目なの?」
「だって、須田剋太はこれからズッと常設されるからです」
「誰が、そんな事を決めたの?」
「よく分らないけど、町が須田剋太の画の持ち主と、そう言った契約をした・・・・とか言うはなしですよ」
「えっ、須田剋太の画は町の財産ではないんですか?」
「違います。これだけは確かな事です」
「チョット、チョット。高原美術館は、公立美術館ですよね?」
「そうです」
「それならば、なぜ私立美術館のように個人のコレクションを常設するんです?」
「・・・・・・」
「だって、そうでしょう。須田剋太だって悪くはないけど、世の中には、須田剋太よりもずっと素晴らしい芸術家がゴマンと居るじゃないですか?・・・・ゴッホあり、マネあり、モネ、シスレイ、セザンヌ、ドガ、ピカソ、ロックウェル、カンジンスキー、日本人だって横山大観、河合玉堂、それに身近な所ではこの町の栗林先生の画だってあるじゃないですか?・・・・なぜ、チャンスがあったら、こういった人達の作品を、今回のピカソ展のように、展示することができないんです?」
「だから・・・・それは・・・・つまり・・・・その契約に基づいているからでしょう。それに、須田剋太の画の持ち主は”この美術館の展示室は誰にも貸さないっ!”とか言ってるそうですよ・・・・・」
「冗談でしょう?」
「真偽の程は分りません。でも、そう言った話しを耳にしましたよ・・・・」
「もし、それが本当の話だとしたら、その人は理路整然と間違っていますよ」
「・・・・・????」
「いいですか、美術館を建てたのは町ですよね」
「ええ、そうです」
「町はその美術館を第三者に譲渡していませんよね」
「していません」
「だとすると、登記所に行って調べてご覧なさい。美術館の所有者は町になっているはずです」
「その通り」
「ところで、”貸す”という行為は、或る物の所有者がその物の所有者でない第三者に有償もしくは無償で、その物を使わせる・・・・ことを意味しますよね」
「そう言うことになりますね」
「それから、もう一つ。ここが大切なことですが、町が美術館を画の持ち主に貸しだし、画の持ち主が自分の画を町から借りた美術館に展示しているのですか?・・・・・それとも、町が須田剋太の画を、画の持ち主から借りて、自分の町の美術館に展示しているのですか?・・・・・どちらなんです?」
「あとの方だと思います。と言うのは、町は画を展示することの代償として、入館料の30%を画の持ち主に支払うことになっているそうですから・・・・・」
「だとすると、美術館の所有者でない、と同時に美術館の借り主でもない須田剋太の画の持ち主が、”美術館を誰にも貸さない”などと言っていることは理論的に間違っていることになる。この場合、”美術館を誰にも貸さない”と言いうるのは、画の持ち主ではなくて、町だということになる。そうは思いませんか?」
「おっしゃる通り・・・」
「だから、画の持ち主は”理路整然と間違っている”と言ったんです」
「ナルホド・・・・」
「でも、その画の持ち主はいつか行き詰まるでしょうね」
「どうして、そう思いますか?」
「どうしてって? 言われても、困るけど・・・・そう・・・・・貴方以外の人からも、その人の話しを聞いたけど、話しを聞いた後、とても淋しくなるからです・・・・」
「頭に来ることはありませんか???」
「そりゃあ、ありますよ。現に、貴方から今日この話しを聞いて、こうして話していても頭に来てますよ」
「そうは見えないけど・・・・」
「いや、そうです。でも、今にその人の支持者はどんどんと減って行くでしょうね」
「そうかな?」
「そうです。と言うのは、その人の行為は、人の道から外れているように思えるからです」
「そう言えますかね?」
「ええ、よく分らないけど、それに近い事は言えるとおもいます。そう・・・・・・よくは分らないけど、これだけは言えると思いますよ。・・・・・・もし、その人が本当に町のことを考えて行動していたとしたら、大勢の人が彼を後押しするようになるでしょう。しかし、もし、その人が、自分の利益の事だけを考えていれば、彼はやがて町民全体を相手にするようになりますよ・・・・・・」
「なるほど・・・・」

その彼と、こんな話しをしたのは、もう半年以上も前の去年の秋のことだった。

そして、今日、栗林先生の画が晴れて美術館に展示される日がきたのである。
本当に「ヤッタゼ、ベイビー!!」と叫びたくなるような心境である。
でも、僕の心の中では・・・・・・・栗林先生の画が、展示されたことを心から嬉しく思う反面、「須田剋太の画の持ち主は、こんなにも皆んなが喜ぶことに、なぜ快く協力してくれなかったんだろう?」と淋しく思う気持ちもチョッピリあるような気もする。

と思った瞬間、僕は心の中で大きな声で叫んでいた。
・・・・・「ああ、嫌だ、嫌だ!!・・・・これは僕の感情のキザなセンメンタリズムでしかない!!」
「だって、そうだろう!!この町の心ある人達が、過去一年間、どんなに苦しんできたかを考えたら、こんな綺麗事を言っている場合じゃないって事くらいは、すぐに分る筈じゃないかっ!!!!

そんな事を暫くのあいだ考えていた僕は、突然、ビクリと身震いすると、ボツリと独り言を言った

・・・・・「そうか、今回の事実は、良く考えてみると、矢張り・・・・なるようにしか、ならなかったんだ!!」

そう思ったら、とても気持ちが楽になりました。

     

     




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