まず、最初に言って置きますが、
私は、色々な方々から「ねえ、ねえ、八岳さんが、ノームに会った事があるって、あれ・・・・ホントの事なの・・・・?」
と質問されますと
「・・・・うん、ホントだよ。 そう・・・・ 1991 年から 1992 年にかけて、僕は何回か、プティリッツァ ( = ノーム ) に会った事があるんだよね・・・・!!」
と答える事にしていますが、この表現は、厳密に言いますと、正確な表現ではありません。・・・・と言いますのは、
私は 1991 年から 1992 年にかけて、何回か、プティリッツァに出会った事があると信じておりますが、その当時の事をよく考えてみますと、それが、現実の事なのか・夢の中の事なのか・・・・自分自身で、ハッキリと断定出来ないからなのです。・・・・ですから
もっと、正確に、自分の気持ちを言い表しますと「私は 1991 年から 1992 年にかけて、何回か、プティリッツァに出会った事があるに違いない・・・・!!」
と考えています。と言うのが、正直な気持ちではないかと考えています。
では、何故、
「・・・・うん、ホントだよ。 そう・・・・ 1991 年から 1992 年にかけて、僕は何回か、プティリッツァに出会った事があるんだよね・・・・!!」
などとイイカゲンとも思える表現を使っているのかと言いますと・・・・・
一番最初の頃は・・・・それでも・・・・人にノームの事を説明する時には、これからこのページでお話しするような事を説明したあとで、いつもキチンと「・・・・だから僕は、ノームに会った事があるに違いないって思ってるんだよね・・・・」
等と言っていたのですが、
1996 年から1997 年にかけて通学した、東京は JR 阿佐谷駅の北側にある「ハローアカデミー英語学院」からの帰り道・・・・何十回となく通った駅南口の「ドトール」や「銀の鈴」で知り合ったお嬢さんに、私がノームに会った事があるに違いない・・・・と言う事を、自分が経験したことを混じえて話したところ、彼女達から
「・・・・ねえねえ、それって、英作文みたいな言葉だと思いません?・・・・だってさア・・・・英語の ”I think I must have seen a gnome ...........”を日本語で言ったようなギゴチ無さがあるんだもの・・・・・」
とか
「なんか回りクドクて、分っかりにく〜い・・・・」
とか
「もっと分かりやすい言い方って無いの〜〜?」
とか
「・・・・それって、ノームに会った事があるって言うことなんでしょう・・・」
とか
「じゃあ、もっと分かり易く・・・・直接的に言っちゃえばいいのに・・・・」
等々・・・・アアデモナイ、コウデモナイ・・・・と言われているうちに、段々と面倒臭くなり「じゃあ、面倒臭いから・・・・”ノームに会った事がある ” って言っちゃおか・・・・」
って言ったら、
「うわあ、それの方がずっと面白いよ・・・八岳さんが言ったら、私達、半分信じちゃうもん・・・」
という可愛らしい反応に、気をよくした私は・・・・いまでは、ご覧のように、自分の名刺にも
「私は・・・・小海の森で、このプティリッツァに会いました。
プティリッツァとは、ノームの言葉でノームのことを意味します」
・・・・と記載するようになってしまったのです。
従いまして、これから記述する当日の状況描写の文中に於ける、全ての動詞は、「 〜 した」、「 〜 と言った」 etc.
↓
「 〜 したに違いない」、「 〜 と言ったに違いない」 etc.
等々と適当に置き換えて、お読み下さるよう、お願い親します。
この事を、一番最初に申し上げたところで、・・・・これから、・・・・私がノームに会った日の事などをお話して参りたいと思います。
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さて、1991 年 (平成3年) から 1992 年 (平成4年) にかけて、私は、今までお話した通りに・・・・何回かプティリッツァに出会ったに違いないと考えて居りますが、それら全ての場面に於て共通しておりますのは・・・・不思議な事に・・・・時刻は毎回同じように盛夏の夕方すこし前、場所は毎回美しい白樺林に囲まれた大きな岩のある所、出会ったプティリッツァは毎回同じ人物( = 同じプティリッツァ )、話の出だしはいつも私がベランダでヘッセの詩集か絵入りの短文集「放浪」( Wanderung ) を読んでいる時・・・・であったと言う事です。
それでは、・・・・これから・・・・私は、その中の最初の一日・・・・私が初めてプティリッツァ ( = ノーム )に出会った日の不思議な経験を、読者の皆様にお話しする事に致します。
・・・・尚、その他の日の体験については、これからお話しする内容を敷延(ふえん)してお考え頂ければ・・・・或る程度はお分かり頂けるのではないか・・・・と考えている次第です。
・・・・・・・
・・・・・・・
さて・・・・私、筆者、八岳晴耕は本を読む事が大好きだ・・・・と言うところから、話しを始める事にいたしましょう。
・・・・・・・
・・・・ホラー物とか、人を目茶苦茶に傷つける類(たぐい)の身の毛のよだつような作品は、どうも気味が悪くて、好きになれませんが、その他のものは
子供が大好きな絵本や童話であろうと、お伽噺やパズルの本であろうと、それこそ・・・・もう・・・・大人の読むポルノ小説から・・・・恋愛小説・純文学・画集・写真集・歴史・地理・数学・生物・物理・天文学から聖書・経文(きょうもん)・コーランに至るまで、時間さえあれば、本当にもう何んでも読んでしまいます。中でも特に好きなのが、トルストイとヘルマン・ヘッセの作品で、まとまった時間があるときは、大好きな紅茶でも飲みながら、この二人の小説を手に取ってユックリと読書を楽しみますが・・・・時間が少ししかない時は、もっと短かいヘッセの詩集や短文集の一編一編を、楽しく味わいながら読んだりしています。
ですから・・・・
私共の 『長野県の家』 (八ヶ岳山麓にあるセカンドハウス:標高 1280m)には、私が若い日に買い集めたヘッセの作品集 23 巻が揃っています。
・・・・・・・
今では、その表紙の色も、かなり色褪せてしまっていますが、それでも、私はヘッセの水彩画で飾られた表紙が大好きで、眠くなるような休日の午後など、知らず知らずのうちに手に取るのは、ヘッセの作品集の一冊か、その上の棚にのっているトルストイ選集の中の一冊である事が殆んどです。・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
さて、・・・・私は、冬季、自分の好きな作家の本を読むときには、いつも小道具となっている熱い紅茶を用意します。
本棚のある二階の居間のブルーフレームに火を入れ、ストーブの上に置いた薬缶がカタカタと音を立てるのを耳にしながら、静かな夜の読書を楽しむのです。
そして、夜も更け、読書にも疲れ、眼の奥の奥がジンジンと痛みだすと、私は熱い紅茶を大きなマグカップに並々と注(つ)ぎ、窓ガラスを通して、深夜の庭に森々(しんしん)と降り積もる雪の一片(ひとひら)々々をユックリと目で追いながら、香り高い紅茶を楽しむのです。
そんな時には、今まで読んでいた小説の主人公が同じ部屋の中で息をしているような錯覚に、ふと襲われることがあったり、我が家自体がヘッセの詩の中の冬の森に取り囲まれているように感じることさえあるのです。でも・・・・
夏の日の読書は、趣が全く違います。
・・・・大好きなブルーフレームも暖炉ストーブも眠ったままだし、窓の外には雪も降っていないからです。
そう、夏の日の特徴は何んと言っても、午後のひと時に、さんさんと降る銀色の通り雨です。
高原の午前中はどんなに晴れていても・・・・午後になると必ずと言ってもいい程に、純白の入道雲がモクモクと湧き立ち、その入道雲が崩れると空一面が灰色の雲に覆われ、次いで大粒の通り雨がさんさんと銀色に降り注ぐのです。
・・・・雨が大好きな私は、この通り雨が降りだすと、大急ぎで二階の居間に駆け上がり、窓辺の椅子に腰掛けると、時折りザッとガラス窓に吹き付ける雨音と空一杯に響き渡る雷鳴を耳にしながら、鉛色の驟雨と煌(きら)めくような稲妻に見とれるのです。
でも、夏の午後の通り雨は、そんなに長くは続きません。
30 分もすると、さしもの驟雨もすっかりと止み、荒れ狂っていた天気も嘘のように晴れ上がると、折りに触れて淡い水色の空に綺麗な虹の橋が掛かったり致します。
地面からはムッとするような水蒸気が匂い立ち、時折り吹く一陣の風が、心地よくほてった頬を撫でて呉れます。
・・・・こんな、素敵な午後のひと時がやって来ると、私は真っ白なイタリア製の折畳み椅子をベランダに持ち出して、夢見がちな読書や憧れにも似た詩読を楽しむのです。
そう・・・・あれは、ヒュッテ新築後 2 年目の 1991 年 (平成3年) の真夏の午後の事でした。
その日も、夏の午後の定期便の驟雨がやって来たあと、林に囲まれたヒュッテの狭い空が淡く晴れ渡ると・・・・私はいつものように白い折畳み椅子をベランダに持ち出し、二階の書棚から愛読書の一冊・ヘッセの「放浪」( Wanderung ) を持って来ると、この可愛らしい椅子に腰掛けて、古く陽焼けしたページをめくり始めたのです。このボヘミアン的な響きを持つ ”Wanderung ”の各項目には、珠玉のような挿し絵と短文がそっと収められています。
「農家」「牧師館」「村」「赤い家」などなど・・・・
何回読んでも、味わいのある懐かしい文章です。
私は、もう今迄に何回・・・・近くの林の中で鳴いているカッコーの声を聞きながら,この古びた本の中を彷徨った(さまよった)ことでしょう!!ところで・・・・
読書をする時、私には、困った癖が一つあるのです。
・・・・それは、本を読みながら実によく居眠りをすることなのです。
どんなに面白い本を読んでいても、読み始めて 30 分ほどすると、必ずと言っていいほどに 20 〜 30 分ほど、グッスリと寝込んでしまうのです。
・・・・その後で、目を覚ますと、今度はサッパリとした新鮮さで、気持ち良く本を読む事が出来るのです。この日も、そうでした。
ベランダの真っ白い折畳み椅子に腰掛け、この Wanderung を適当に開き、いつものように美しい水彩画の口絵を暫くのあいだ眺めたあと、美しいヘッセの文章を読み始めました・・・・それは、この本の中でも特に好きな「農家」か「牧師館」だったかも知れませんし、別の場所だったかも知れません。
詩のように美しいヘッセの文章。
・・・・日本語に訳された翻訳でさえこんなに美しいのですから、ドイツ語が良く分かって、この本を読んだら、どんなに素敵でしょう!!いつものように、そんな事を考えながら、ほんの 2 〜 3 ページも読んだでしょうか、私はまたまたいつものように、その椅子に腰掛けたまま寝込んでしまったのです。
・・・・夏の午後の陽射しは、ここ海抜 1300m の高原にあるヒュッテの辺りでは、けっこう強いものです。・・・・その強い直射日光を浴びたまま昼寝をするのは・・・・本当は、余り体にいい事ではないのかも知れません。
暫くすると、私は、フト胸騒ぎがして目を覚ましました。
・・・・眠っている間に強い日光に当たっていたせいでしょうか、頭の奥の方が微(かす)かに痛むようです。・・・・胸騒ぎがしたのは、この軽い頭痛のせいだったのかも知れません・・・・(そうだ、今日はまだ午後の散歩に行ってなかったっけ・・・・)
そう思うと、私は気分転換の為に、午後の散歩に出掛けることにしました。散歩のコースは歩き馴れたいつもの道・・・・
夏になると、ヒュッテの周囲は緑が一杯です。
・・・・・
・・・・そう・・・・気が付けば、ヒュッテの周りには、結構たくさんの家が建っているのですが、都内の家に比べると、どの家も何倍も庭が広く沢山の樹々が生い茂っている為に、夏の間は地域全体が広い林になってしまいます。
「ツンツンピー、ツンツンピー」
小枝の上では、胸にネクタイを飾りつけたシジュウカラが可愛らしい声で囀(さえず)り、
「パッポー、パッポー、パッポー・・・・」
遠くの方では、カッコウがおどけた声で鳴いています。
・・・・10 年ほど前、この地にヒュッテを建てた当時は、まだまだ名前を知らなかった動植物の種類が沢山あったのに、・・・・小さい時から生き物が好だった私には、いつの間にか沢山のものが馴染み深いものになってしまいました。
シカ、タヌキ、キツネ、リス・・・・等の哺乳類。
カッコウ、ホトトギス、カケス、オオルリ、ゴジュウカラ、シジュウカラ等の野鳥達。
・・・それから・・・・
シラカバ、カラマツ、カエデ、ミズナラ、ズミ、サクラ等の喬木(きょうぼく)類・・・・
野草だって、ツリガネニンジン、ナデシコ、ワレモコウ、ハギ等々・・・・
・・・こういった生き物達が、いつの間にか、散歩の途中の挨拶仲間になってしまいました。
・・・・・・・・
・・・そして、このむせ返る様な緑に包まれた散歩道を歩くのが私は大好きです・・・・
ところで・・・・どれほど歩いたことでしょうか?
ふと、気が付くと、道端の太い木の根っこの所に大きなキノコが生えていました。
今まで見たことのない綺麗なキノコです。
「おや?」
と思って、周囲を見回すと、
・・・・私は迷い子になってしまったのでしょうか・・・・?
辺りはいつの間にか全く見知らぬ場所になっていたのです。
「・・・・???」
私は、とても不安になりました!
・・・・・・
そこで、早くヒュッテに帰ろうと思って、速足で歩き始めますと、今度はどうでしょう!
前に進めば進むほど、道はどんどんと細くなって行くのです・・・・
(あ、大変!・・・・変な所に行ってしまう!)
と思って、後ろに引き返そうとしたのですが、これはどうした事でしょう・・・・
・・・・今度は、どうしても元(もと)に戻ることが出来なくなっていたのです・・・・
と言うのは、どんなに頑張っても・・・・自分の足を前にしか動かすことしか出来ないし、からだ全体が金縛りに遇ったようで、ウシロを振り返る事も出来ないからです・・・・
「・・・・・・・?」
・・・・そして・・・・改めて気が付くと・・・・
これは、どうした事でしょう・・・・
今度は・・・・私は深い白樺林の少し開けた所に立っていたのです・・・・!
しかも・・・・不思議な事に・・・・足元の草や周囲の白樺の葉っぱには・・・・先刻の通り雨の名残でしょうか・・・・沢山の水滴が付いて・・・・それらの水滴が・・・・夏の午後の陽射しを受けて・・・・そう・・・・本物の宝石のように・・・・ルビー色、青、紫、黄色、緑、ピンク・・・・等々のとても美しい色に輝いていたのです・・・・そして・・・・
私の前には大きな岩があって、その上に、一羽のシジュウカラが止まって
「ツンツンピー、ツンツンピー」
と囀っていました。
・・・・・・・
ところが、またまた驚いた事に
・・・・・・・
・・・・そのシジュウカラが・・・・突然、日本語を話し出したのです。
しかも、とても流暢な日本語です。「おや?」
と思って、よく見ると、そのシジュウカラは赤いトンガリ帽子を被った可愛らしい小人さんに変わっているではありませんか・・・・!!!!
驚いた私が
(えっ? さっきのシジュウカラはこのノームだったの?)
と驚いて、その可愛らしい小人さんに
「君は、ノームなの・・・・?」
と訊くと、その小人さんは憤然として・・・・・
「失礼な人間だね・・・・君は!」
っと言ったあと、
「・・・・いいですか・・・・初めに言って置きますが、私は、貴方よりずっとずっと年が上なんです!・・・・ですから、お互いに、”君 ”なんて言う呼び方をしないで、相手を尊重した呼び掛けをしようじゃありませんか・・・・!!」
と、物凄く流暢な日本語で話し始めたのです。これが、私がこのノームから聞いた最初の言葉だったのです。
それから、暫くの間、私はそのノームから色々な事を聞きました。
●ノームが人間より高等な霊長類であること。
●ノームはわれわれ人間より遥かに高い知能指数を持っていること。
●ノームはわれわれ人間が持っていない 6 番目の感覚をもっていること。
●その 6 番目の感覚は Tvarjanka と呼ばれ、人間には非常に分かりにくいこと。
●その他、ノームに関する、本当に驚くほどの沢山のことを・・・・です。
この間、時間はどのくらい経っていたのでしょうか?
・・・・今から考えると、それは、わずか 1 分たらずだったようにも思えますし、2 〜 3 時間だったようにも思えます。ただ、一つだけ非常にハッキリと憶えていますのは、彼等だけが持っている第 6 番目の感覚 Tvarjanka が非常に分かりにくかった為、
「 Tvarjanka がとても分かりにくいので、別の機会にもう一回説明して頂けませんか・・・・?」
と言いますと、そのノームは岩の上にあった一枚の白樺の葉っぱを両手でヨイショと持ち上げて私に渡し
「それでは、この白樺の葉っぱを無くさないようにしてください。・・・・きょう説明した Tvarjanka は、あなた達、人間にはトテモ分かりにくいものだと思いますので、貴方がその葉っぱを大事にしている間は、何回でも説明をしますから・・・・・・・」
と言ったところで、ノームは息をつき
「・・・ただし・・・・その白樺の葉っぱは、貴方が Tvarjanka を理解したときに、返して頂きますよ・・・・いいですね?」
と言ったかと思うと、そのノームも、岩も、美しい水玉たちも、そして・・・・白樺の林もスーッと姿を消し、私は先刻散歩していたヒュッテの近くを歩いていたという訳なのです。「不思議な事があるものだ・・・・」
そんな事を考えながら、ヒュッテまで返ってくると、私は散歩に出掛ける前に座っていたイタリア製の白い椅子の上に置いてあった Wanderung の本を手に取ると、本の間に先刻ノームから貰った白樺の葉っぱを挟み、又その椅子に座りなおして、先刻の続きを読み始めたのです。・・・・でも、散歩に行って来た為に、少し疲れていたのでしょうか・・・・私は、又々すぐにお得意の居眠りを始めてしまいました。
さて・・・・・・・・・
・・・・どのくらいの時間がたったでしょうか?
首筋に高原のヒンヤリした空気を感じて、私は目を覚ましました。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・!!!」
「・・・・・・???」
そして・・・・
私は、その日の午後の・・・・今の今迄、私の身に起きていた事を思いだしてみました。
・・・・・・・
そして・・・・
・・・・・・・
最初は・・・・
「・・・・・・・」
「・・・夢か・・・?」
と考えました。
・・・・・
「いや、違う! 余りにもハッキリしている・・・」
瞬間的に、私はポツリとそう独り言をいいました・・・・
だって、あの Tvarjanka の説明を聞いたあたりの事・・・・は本当にリアルだったからです。
・・・・・
「じゃあ、ホントの事かな?」
そう考えてみると、いやはや・・・・とても、現実の事とは思えません・・・・
・・・・・
・・・・・
「夢かな・・・?」
・・・・・
・・・・・
「現実かな・・?」
・・・・・
・・・・・
と、考え始め
・・・・・
・・・・・
それから、暫くの間、私は
「ああでもない・・・・!」
「こうでもない・・・・!」
と考え続けました。
・・・・・
・・・・・
しかし、なかなか結論は出て来ません。
・・・・・
・・・・・
「何か証拠になるものは無いだろうか?」
そんな事を考えているうちに、私は、ふと
「そうだ、さっき・・・・・ノームから白樺の葉っぱを貰ったっけ・・・・?」
と、気が付いて
・・・・・手にしている Wanderung (放浪)の本をパラパラとめくって見ると
・・・・・
・・・・・
「あった!」
・・・・先刻、岩の上にチョコナンと立っていたノームが呉れた、あのみずみずしい白樺の葉っぱが、本の間にチャント挟まっているではありませんか・・・・!
・・・・・・
「????」
・・・・・・
私は、その白樺の葉っぱを右手の親指と人差指でつまんでシゲシゲと眺めて見ました。
・・・・・・
そして、それから・・・・
・・・・・・
私は慌てて、自分が座っている椅子の周りを、探してみました。
ヒュッテの庭には何本か白樺が植わっているため、もしかすると、その白樺の葉っぱがここまで飛んで来たのではないかと、考えたからです。
・・・・・・
しかし、ベランダのデッキの上には、一枚の白樺の葉っぱも見当たらず・・・・それどころか、あたりの空気はとても静かで、この白樺の葉っぱが、風に舞うなどという事は・・・・とうてい考えられそうにありません・・・・・。「ウーン、・・・・そうすると、矢ッ張りホントの事か・・・・?」
私としては、そう結論づけるより他に方法がなかったのです・・・・!!!!!!!
・・・・・
・・・・・
・・・・・
そう、これが、私が初めてノームと出会った時の記憶なのです。
私は、その白樺の葉っぱを大事に「放浪」の本の間に挟み込みました。
・・・・・
と、言うのは、先刻のノームが
「それでは、この白樺の葉っぱを無くさないようにしてください。この Tvarjanka は、トテモ分かりにくいので、貴方がその葉っぱを大事にしている間は、何回でも説明をしますから・・・・・・・」
・・・・とハッキリ言ったのを、憶えていたからです。
どうです・・・・?
皆さんは、どうお考えになりますか・・・・
・・・・・
えっ、私ですか?
・・・・・
私は・・・・その白樺の葉っぱをヘッセの本の間に挟んで、大事にしていた為かも知れませんが・・・・幸いな事に・・・・その後も、そのノームと何回か会う事が出来たのです。
・・・・・
そして、本当に、色々な話しを、そのノームから聞き、沢山の事を勉強しました。
その中で一番、一生懸命、私が分かろうとしたのが・・・・例の Tvarjanka の事でした。
・・・・と言うのは・・・・この Tvarjanka があるために、ノームの感性というものが、エゴの塊りのような人間の感性とは全く違った、透明で清潔感のあるものであり続ける事が出来るのだ・・・・と言う事を私は本能的に嗅ぎ分けていたからです。
しかし・・・・・・・この分かりにくい Tvarjanka も、繰り返し、繰り返し、そのノームの説明を聞いているうちに・・・・いい加減でチャランポランな私にも、それがどういった物であるものなのかが・・・・可成り分かるようになって来たのです。
・・・・そんな、或る日の事、私はまたまた例の白樺林で、顔馴染みになったノームと話をしたのですが、
・・・・・
・・・・・
その時、そのノームに
「どうです・・・もう、ソロソロ Tvarjanka がお分かりになったでしょう・・・?」
と聞かれた私が、
「ええ、お蔭様で・・・・友達や仲間達にも、ある程度の話は出来そうです・・・・」
と答えますと
「そうですか・・・・それで、私も安心しました。・・・・・では、約束通り・・・・前にお預けした白樺の葉っぱは返して頂きますからね・・・・」
とそのノームに言われたのです!
「・・・・・?」
これは、私にはショックでした!
でも、仕方がありません・・・・
・・・・・・
そのノームとの別れを長引かせる為に
「・・・・いいえ、Tvarjanka はまだ、よく分かりません・・・・」
などとウソをついた所で、そのノームにとっては、全てがお見通しなのです・・・・
・・・・・・
ですから、仕方がありません。
ホントの事を言うより、他に方法がないのです。
・・・・・・
・・・・・・
・・・・そして、分かれる直前
「もう・・・・これきり、会えないんですか・・・・?」
と、僕が聞きますと、そのノームは
「そんな事はありません。 貴方自身が、本当に Tvarjanka を大切にしていて下されば、多分、またお会いできると思います。・・・・その時は、又、この岩の所にいらして下さい・・・・」
・・・・・
・・・・こう言うと、いつもの通り彼の姿はスーッと消えてしまい・・・・
暫らくすると、私は、いつもの通りに、「放浪」(Wanderung) の本を手にしたまま・・・・例のイタリア製の真っ白い椅子の上で、いつものように目を覚ました・・・・と言う訳なのです。
・・・・・
・・・・・
目が覚めた私は、慌てて「放浪」(Wanderung)の本をパラパラと開いてみました。
・・・・それから、今度は、丁寧に 1 ページ 1 ページをめくって調べてもみました。
・・・・しかし、あの白樺の葉っぱは、その本のページの間から忽然と姿を消してしまっていたのです・・・・!
・・・・・
・・・・・
私は、自分が坐っていた椅子の周りを何回も見回しました。
・・・・・それから・・・・ベランダのデッキの上で四つん這いになり、床板と床板の間の隙間に右目を近付けて、この隙間から白樺の葉っぱが地面に落ちたのではないかと、気が済むまでベランダの上を這い回って白樺の葉っぱを探し続けました。
・・・・・
・・・・・
しかし、その白樺の葉っぱは、もう二度と私の手許には戻って来ませんでした。
*********************************
如何ですか?これが、筆者、八岳晴耕がプティリッツァ(ノームの言葉で「ノーム」という意味です) に会った思い出話しです。
・・・・その日以来、今日まで、私は、そのプティリッツァ (Ptylitza) に二度と会っておりません。
チョット淋しい気持ちがしないでもありませんが・・・・でも、それはそれで、よかったのでは無いかと最近の私は静かに考えるようになって参りました。
・・・・と言いますのは、今では、彼等の Tvarjanka が私の心の中で、静かに息づいているような気がしてならないからです・・・・!!
ヒュッテの冷蔵庫に貼ってあるプティリッツァのシール
・・・・では、どうして私だけが、こうしてプティリッツァ (Ptylitza) に会う事が出来たのでしょうか・・・・?
そんな事を・・・・つらつらと考えてみますと、幾つかの理由が考えられなくもありません。
・・・・そう・・・・大した事ではありませんが、大雑把に言いますと、おおよそ、次の様な事なのかも知れません・・・・・!!
・・・・その幾つかを、ここに列挙してみますと・・・・・・
●私は小さい時から、可愛らしいものが大好きだったこと。
●この世の中には、小人が棲んでいる・・・と思い続けて来たこと。
●小人は、とてもキレイな心を持っていると信じ続けて来たこと。
●1989年、サンリオから出版されたノームの本を読んでショックを受けたこと。
★「ノーム」 ★「秘密のノーム」●自然が美しい、松原湖の周辺に、ノームが棲んでいると半ば確信していたこと。
・・・・等々です。
私の友人達の何人かに言わせると、以上のような希望と期待が私の深層心理に働いていた為、私がノームに会ったと錯覚しているのだ・・・・と言う事ですが・・・・
一方の私にしてみますと、ノームから一枚の白樺の葉っぱを貰ったり、彼等の Tvarjanka をアヤフヤながらもひと通り理解できるようになった時・・・・約束通りにその白樺の葉っぱが私の大切な本の間から、忽然と姿を消して仕舞ったという説明不可能な事実が・・・・筆者とプティリッツァの出会いがが現実のものであった・・・・という事を私自身に信じさせている一番大きな理由になっているのではないかと思います。
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