2006 年 05 月の高原日記
2006-04-17(月) 晴 ヒュッテ 気温(最低= -4℃、最高= 12℃)
つい4〜5日前のことである。
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2006-04-17(月) 晴 ヒュッテ 気温(最低= -4℃、最高= 12℃)
つい4〜5日前のことである。
2006-04-17(月) 晴 ヒュッテ 気温(最低= -4℃、最高= 12℃)
つい4〜5日前のことである。
2006-04-17(月) 晴 ヒュッテ 気温(最低= -4℃、最高= 12℃)
つい4〜5日前のことである。
2006-04-17(月) 晴 ヒュッテ 気温(最低= -4℃、最高= 12℃)
つい4〜5日前のことである。
2006-04-17(月) 晴 ヒュッテ 気温(最低= -4℃、最高= 12℃)
つい4〜5日前のことである。
2006-05-17(月) 小雨のち曇 ヒュッテ 気温(最低= 7℃、最高= 15℃)
青大将の交尾を撮影
2006-05-26(金) 晴 ヒュッテ 気温(最低= -4℃、最高= 12℃)
昭和19年8月23日。
僕達、戦時中の東京は中野区の桃園第三国民学校(今の小学校のこと)の3年生から6年生までの学童 47名は、近い将来、東京が米国の爆撃機の戦火に晒されることを危惧して、長野県上伊那郡東箕輪村 普済寺 という臨済宗のお寺さんの山門を潜(くぐ)ったのである。
所謂(いわゆる)、集団疎開のことである。
静かな佇まいの普済寺の山門(現在)
それから、1年3ヶ月後の昭和20年十一月12日まで、僕達、学童疎開児は、この普済寺のお世話になったのです。
当時のわが国は、現在の日本では、到底信じられない位に、日本中、何処に行っても、慢性的な食糧難と物資不足だった為、お腹が空いたり淋しかったりすることはあったけど、それでも、記憶に残る限りでは、風邪ひとつひくことも無く、元気に東京に戻って来られたのは、付き添いの先生や保母さんのほか、豪放磊落で優しかった文拙和尚様を肇(はじめ)とする、お寺の皆様が、僕達に優しく接して下さった為と、深く感謝している次第です。
お寺の本堂への入口玄関。
当時の茅葺(かやぶき)屋根は、現在は銅版で美しく覆われ
障子の滑り戸も、ガラス戸にとって代わっている。それから、20年8月15日・・・・・・
松尾先生、文拙和尚様、長パン、保母さん
それから、我々学童疎開児が集まって
昭和天皇の終戦の詔勅を、ラジオで聞いたのは、
右手の松の手前。
少し汗ばむような暑い日中の事でした。
それから、11年後の大学2年になった時・・・・・・
フトした事から、僕は自分の生き方に疑問を持つようになり、全寮制の大学寮を飛び出し
普済寺に一ヶ月ほど、転がりこんでいた事がありましたが、その時に、文拙和尚さんは他界されたのです。
2006-04-17(月) 晴 ヒュッテ 気温(最低= -4℃、最高= 12℃)
つい4〜5日前のことである。