2004 年 10 月の高原日記
2004-10-02 (土) 晴 自宅(都内) 気温(最低= 18℃、最高= 27℃)
今日とあした、2日続きで 「中野まつり」 が開かれる。
これは例年の行事であるが、今年は、この祭りのパレードにスペシャル・オリンピックス東京のグループも参加させて頂くことになった。
・・・・・・事の起こりは、来年2月、長野で開かれるスペシャル・オリンピックスの世界大会に向け、各地で500万人トーチランが行われているが、その一環として、中野区では、区民パレードに SO の子供達を参加させて頂く事になったのである。
コースは、新井薬師公園から中野区役所までの約 2km 。
TAC の人達も含め、60人程が、幟(のぼり)を持って、参加をした。
・・・・・・今回の行事を通じて、Aさん、Kさん、Tさん という3人のお母様達と知り合いになったけど、皆さん、とても明るくてボランティア精神の豊かな素敵な方々ばかり・・・・・・毎日のようにテレビから流れて来る、色々な悲惨なニュースを聞いていると、本当に気が滅入る思いがするけど、こんなに素敵な人達が近くにいる事が分ると、心のそこからホ〜〜〜ッとさせられてしまいます。
2004-10-03(日)
大リーグ ”マリナーズ” のイチローが、10月1日( JMT 10月2日 ) に、259本のヒットを打って、1920年に シスラーが立てた 257本の年間最多安打記録を、84年ぶりに更新した。
このニュースが TV から流れた時、普段はそんなに野球に感心を持っていない家内までが、
「 ヤッター・・・・・・!!」
と手を叩いて、大喜びをしていたのを見ても・・・・・・それから・・・・・・アメリカはマリナーズの地元のシアトルだけでなく、ニューヨークの連中までもが、大騒ぎをしていたのを見ても、イチローが建てた記録が如何に大きな金字塔かが分るというものである。
それにちなんで、2日午後、読売新聞から 4ページものの号外が出たので、その写真を最後に載せて、今日の日記を終わることにする。
2004-10-06 (火) 雨 自宅(都内) 気温(最低= 12℃、最高= 22℃)
イチローの 2004 年度のヒット数は、最終的に 262 本となった。
サア、この記録を次に破るのは誰だろうか・・・・・・・?
イチローは、記者会見で、
・・・・・・・「それは、自分でありたい!!」
と、言っていたけれど・・・・・・・話は変わるが、台風22号が、進路を北東にとり、不気味に関東地方を狙っている。
・・・・・・それにしても、今年は、ナント台風の多い年ナンダロ〜〜??
今迄は、毎年3ツ位のものだったが、今回、コイツが上陸すると、今年の台風は 9個目になる・・・・・・
勿論、この数は史上初・・・・・・改めて、地球温暖化について考えさせられる今日この頃である。
2004-10-07 (木) 曇 自宅(都内) 気温(最低= 15℃、最高= 25℃)
兎に角忙しい、今日この頃のスケジュール。
・・・・・・そんなスケジュールの中・・・・・・やっとの事で、このサイトの Ptylitza のページに、前から気になっていた小海町の新しい流通機構の ”Pシール”、”Pマネー”、”Pネット” をアップロードした。
・・・・・・この ”Pシール” と 商品券の ”Pマネー” は、実に面白い組み合わせだと思うが、その裏には、このシステムを可能にした ”Pネット” 参加店の皆さん方の信用と協力があった事を、深く感謝しなければならないと思う。そんな点から考えてみても、この山間(やまあい)の ”小海町” という町は、過疎の町となりつつあるけど、本当に人情味の溢れた、素晴らしい町だと・・・・・・改めて,気が付いた次第である。
2004-10-08 (金) 雨 自宅(都内) 気温(最低= 14℃、最高= 19℃)
・・・・・・台風 22 号が関東地方に近付いて来ている為だろうか、終日、激しい雨が降り続いた。 雨さえ降っていなければ、MTB に乗って、日課の 15km を走って来るのだが、ヒドイ雨の為、今日のサイクリングはお休み。
仕方なく、今日一日は家内共々、溜まりに溜まっている郵便物と
書類整理
2004-10-11 (月) 曇 自宅(都内) 気温(最低= 14℃、最高= 19℃)
今朝、「独り言」 と題して、掲示板に、こんな書き込みをした。
お早よう御座います!
今朝は、祝日だと言うのに、7時前に目が覚めてしまいました。
・・・・普段だったら、早くても、8時頃、寝床から出てくるのに・・・・
それにしても、最近の忙しさと言ったらどうでしょう・・・・?
来年の2月に、長野で開かれるスペシャル・オリンピックスの準備の事前セレモニーとして、「500万人トーチラン」が国内の各地で現在進行中ですが、私自身の時間も、このトーチランを成功させる為に、色々と時間を割かれているのが現状です。
ところで、皆さんは、スペシャル・オリンピックスって、ご存知ですか?
・・・・簡単に言いますと、今年、アテネでオリンピックとパラリンピックがひらかれました。 オリンピックは、もう皆様、よくご存知ですので、説明は省かせて頂きます。 パラリンピックは、障害を持たれた方々のオリンピックですが、スペシャル・オリンピックスは、知的障害をもった人達を対象にしたオリンピックです。
オリンピックとパラリンピックは、国家的行事として、色々と国の予算も用意されますが、スペシャル・オリンピックスは、名前は正式にオリンピック委員会から、承認されていますが、運営の費用は、全て寄付などのボランティア活動によって集められています。
・・・・ですから、来年の2月に長野で開かれる世界大会の為には、もう本当に気が遠くなるような金額のお金を、集めなければならず、理事長の細川加代子さん(前細川総理の奥様)を始めとした、上層部の方々は、本当にもう毎日毎日、資金集めに奔走しているのが、現状です。
・・・・そして、その様な方々の本当に血の出るような、努力があるお陰で、知的障害をもった人達の為のスポーツ教室が、各地で開かれており、我家の息子も、その活動の一環として、昨年、アイルランドのダブリンで開かれた世界大会に参加する事が出来たのです。
(間もなく朝食のため、ここで中断します)
エ〜〜〜ット・・・・ですから、その人達がしている事を見ていると、知的障害児を身近に持つ私達は、何かを頼まれると、一生懸命にやってしまうんだと思います。
・・・・正直な話、突然、
「チョット、これ至急お願いしたいんだけど・・・・」
等と言われますと・・・・
「エエ? 又ァ〜〜・・・・?」
と思う事もありますが・・・・でも、頼んで来る人達は、僕達の何倍もの努力をしているのを、思うと・・・・
「マア、仕様が無えや・・・・!」
とボヤきながら、重い腰をあげる事も確かにございます。
・・・・でも、その仕事を、終った時は、いつもと言っていい程
「ア〜、ヤッパリやってよかった・・・・!!」
と思うから不思議です。
・・・・昨日も急に・・・・
「各区毎のトーチランは順調に進行しているんだけど、10月31日の、皇居一周のトーチランの参加者が少ないので、至急、近くの人達に連絡をとって、あさって迄に、参加を依頼してみて下さい・・・・」
と言われた時は、
「エ〜? また急ナンダカラ〜・・・・!!」
と、思いましたが
「そうだ、一人でやらないで、手分けをしてやれば・・・・・」
と思い、同じ区のお母様達にお願いしたら
「・・・・分りました、直ぐにやってみます・・・・」
と明るい声で、言われたのには、ホントにビックリ・・・・!!
・・・・昨夜のうちに、何人かのお母様方から、結果連絡が入って来ました。
ですから、今日の夜頃までには、全員からの連絡が入って来るのではないかと思います。
ホントにこれって、本当に、皆様の善意のお陰だと感謝している次第です。
話は変わりますが・・・・
僕の知っている人達の中の一人に、カトリックの修道尼がいます(僕はプロテスタントですが・・・・)。
彼女達は、毎日の様に、山谷の人達に炊き出しをしていますが、彼女達のしている事と言ったら、もう、僕達が出しているエネルギーの何十倍・何百倍ものエネルギーを、本当に人様の為に捧げていると思います。
・・・・以前、テレビの番組で、その山谷に住んでいる人達の生活がテレビで紹介された事がりましたが、バブルが破裂した時、その煽りを食って、倒産した中小企業の方とか、ごく真面目な方が、ちょっとした借金を市中の金融機関からしたところ、その利率が法外に高く、いつの間にか利息が雪達磨式に増え、最終的に山谷に移り住んだ人とか・・・・色々な、人達がいました。
・・・・その時、紹介されたその方達の生活費は、一日、三百円とか五百円とか、という事でしたが・・・・つい数日前、読売テレビのお昼の番組で、「みのもんた」が、社会保険庁のご乱行に触れ、
「ホントに何十兆円もの、積立金が、社会保険庁の上層部の人達によって、交際費・高級な職員住宅・課長クラスの連中の公用車・管理経営を度外視した無軌道な建築物の建設投資に使われて来たんです。 ・・・・こんなバカな事をやって来なければ、年金問題とか、本当に困った人達に対して、救いの手を差し伸べるなんて事には、全く問題は生じて来なかった筈なんです。 ホントに、私はいつも言ってるんですが、社会保険庁なんて無い方がいいんです! 国民の皆さんも、こんな事に対して、もっと、抗議の声を出した方がいいんですヨ・・・・!!」
という趣旨の発言をして、息巻いていましたが・・・・本当に、今の日本の政治の在り方は、哀しい位にお粗末だと思います。
話は横道にそれてしまいましたが・・・・
・・・・っていう様な訳で、又、今夜もスペシャルオリンピックスの卓球教室に、コーチとして出掛ける積りです。
ところで、僕のスケジュールは・・・・この外にも・・・・手付かずのスケジュールがメジロ押し!!
・・・・八ヶ岳山麓の蝶相に関する原稿が一本。溜まりに溜まっている、郵送書類の整理。 至急、読まなければいけない本が3冊。 自宅周りの家屋の手入れ。 八ヶ岳山麓の冬対策。 未だに返事を出していない手紙3通。 メールの返事8本。
・・・・余りの忙しさに、今日はもう10月11日になるっていうのに、今月の高原日記は、まだ、全くの手付かずです。
全く、オヤオヤですが・・・・そういった事も、僕にとっては、人生の楽しみの一つ・・・・
(・・・と気楽そうに言ってますが、内心の半分は、ヤケノヤンパチ・・・!!)
今日も又、アッチコッチを、元気に駈けずり回る事にいたしましょう・・・・!!!
(陰の声・・・・!!)
「そうだ、イイ事がある! このカキコを今日の日記にすることにしよう!」
「そして、今日以前の日記は、手帳の記録を見ながら、後日、追記していく事にしよう・・・・!!」
2004-10-14(金) 曇 自宅(都内) 気温(最低= 14℃、最高= 20℃)
今年の1月、卓球の試合中に腱鞘炎で右腕の肘関節を傷めて以来、半年ほどの間、鎮痛剤などを飲みながら、右腕を騙し騙し使っていたが、どうも今ひとつ調子が良くなかったので、8月下旬頃から向こう6ヶ月の間、ラケットを一切握らない事にした。
その為、長男 KR の練習の相手をする事が出来なくなったので、コーチを探していた所、フトした事が切っ掛けになり、木星クラブという卓球グループに入れて頂く事になった。・・・・・・このグループのメンバーは殆んどが女性達だが、その実力たるや、アチコチの大会で上位にランクされるだけあって、中々大したものである。そして、今日がその第一日目。
KR は 園田さんという 名コーチから、左右の足の位置、打球時の左足の踏み込み、フリーハンドの構え方・・・・・・等々、色々なフォームの指導を受け、本当に有難いと思ったが、何時までも、皆さん方の仲間入りをしていられる事を願う事しきりである。 ・・・・・・それから、幹事の 藤井 さんが、KR とシングルスの 5 セットマッチをして下さったのが、本当に嬉しかった。 ・・・・・・勿論、KR はコテンパンにやられてしまったが、その真摯な態度が本当に素敵! 彼女の素直で誠実な応対がとてもチャーミング・・・・・・本当に素敵な優しくい女性である。
2004-10-17(日) 曇 ヒュッテ
金曜日の晩から一家3人でヒュッテに来ていたが、今日は家内と長男が東京に帰る日。
「・・・・・・気持ちがいいから散歩に行って来ようかな・・・・・・」
の家内の言葉に3人で、ヒュッテの付近を散策する事にした。
秋の日の北八ツは静かで美しい (散歩の途中で・・・・)
出掛けに家内はビニール袋を一つ手に持って
「・・・・・・キノコあるかなア・・・・・・?」
と言いながら、アチコチを歩いてみると、これがまあ、結構な数のキノコに行き当たってしまったのである。
勿論、どれが食べられて、どれが駄目だか・・・・・・なんて知識は、一家3人、誰も持ち合わせていない。
唯一の頼みの綱は、採集したキノコ全部を持って、自動車飛ばして山を下り、 2.5km ほど離れた宮本屋旅館の大将の久紀さんに選別して貰うだけの話である。・・・・・・ってな訳で、素っ飛んで行って来てみると、これがまあ、殆んどのキノコちゃんが食べられるとの事! 家内の喜びようったらアリャシナイ・・・・・・
まァ、次のキノコを見てクラハイ・・・・・・・
どうです?
素晴らしいでしょう・・・・・・?
この 3種類のキノコのうち、真ん中のクリタケだけを家内が東京に持って帰り、左側の ナントカ っていうキノコと一番右のリコボウは、僕が炒めて食べてしまったが、歯応えがあって、とても美味しく戴けました。全く、ブラボー、カントリーライフ・・・・・・!!
で、アリンシタ・・・・・・
閑話休題。
今夕、家内と長男が東京に帰るのに、初めて、中込駅から出ている千曲バスで、池袋までの路線を使ってみることにした。タイムスケジュールは
17:13 小海駅発
17:43 中込駅着17:53 中込バス停発
21:00 池袋東口着と、なっているが、バス停の位置などを憶える為、僕も将来の下見を兼ねて一緒に出掛けて、見送りをして来ることにした。
さて・・・・・・
秋の陽は釣瓶(つるべ)落とし。
・・・・・・なんていう表現があるように、小海駅始発の列車に乗り込んだあと、家内や長男とポツリポツリと雑談をしていたが、その間にも、夕空がドンドンと暗くなって行くのには目を瞠るほど!!
列車が走り出す頃には、もう辺りは薄暗くなってしまっていた。
・・・・・・車窓から外を眺めると、薄紫色の千曲川の向こうの家々の灯やネオンサインが、カタン・カタンという列車の響きに合わせて静かに静かに後ろの方に流れて行く。
・・・・・・ふと・・・・・・里の灯ともす信濃の旅よ
五木ひろしの 「千曲川」 のメロディーが頭の中を横切って行く。
この景色を、僕はもう何回見たことだろうか?
そして、あの国道 141 号線を、僕は何回走った事だろう。
何十回・・・・・・いや、何百回も走っているに違いない。
でも・・・・・・不思議な事に、この景色は見るたび毎に違った表情を見せてくれる!
美しい街と素晴らしい高原列車の旅。そんな事をぼんやりと考えていたら、アッという間に30分が過ぎて、すぐに中込の駅に着いてしまった。
そして、駅を下りてから、千曲バスの停留所を探すのに、約7分ほどを費やし、バス停に着いたのは、発車時刻の3分前ほど・・・・・・
その間に、写真を撮ったりしていたら、間もなくバスがやって来て、家内と長男はバスに乗り込み、バスはユックリと走り出した。僕は慌ててカメラを構えて、バスの後姿を撮ってはみたが、時既に遅し・・・・・・バスは、夜の街の中に走り去り、わずかに、赤いテールランプが画面にポツンと残っているだけだった。
いつも思う事だけど、「別れ」って、何か淋しくって物哀しいですよね・・・・・・・
2004-10-18(月) 晴 ヒュッテ 気温(最低= 6℃、最高= 23℃)
今日、町に出掛けて、Makita のエンジン付きの草刈機を買って来た。
これで我家の草刈機は 2 台という事になる。
今まで逢った Robin の草刈機は、ビニール紐専用。
今回、買って来た Makita は回転刃、専用で使う積りである。
何故、こんな事をしたかっていうと、最近、我家の草刈面積が大幅に増えてしまった為に、紐と回転刃をいちいち取り替えていると、仕事にならないので、2台目を買った次第である。
でも、買って来て、使ってみて分った事だけど、値段によって、切れ味がこんなに違うとは・・・・・・と驚いた次第である。
一代目の Robin は、75,000.- 、2代目の Makita は 37,000.- だが、Robin では大きく育った雑草なんかも軽々と刈れてしまうような所も、Makita を使うと、弾かれてしまう・・・・・・という事である。
この違いは何かというと、どうもエンジンの馬力が草刈機では、ものを言うらしい・・・・・・事に気がついた。
要するに、馬力が強いと、力で以て、バリバリと刈る事が出来るという事なのだ・・・・・・・
今迄、草刈機には、どうして、あんなに色々な値段の機械があるのかと、何回も訝しく思ったのだが、こうしてみると、本当にその理由が分った次第でありんす・・・・・・ヤッパリ、ものは経験ダヨネ〜〜〜!!
2004-10-19(火) 雨 ヒュッテ 気温(最低= 4℃、最高= 15℃)
午前10時、新しいボイラーを据え付けてくれた日立化成の上田営業所のお兄さんが、「水抜き」の説明に来て呉れた。
説明を聞いていき、一応の説明を聞き終わったところで
「ここは冬になると、マイナス 20 度くらいになるけれど・・・・・・これで全部 OK ですよね・・・・・・?」
・・・・・・と、念を押すと
「マイナス 20 度ですか〜〜〜?」
と考え込み、
「それでは、ボイラーの中の一つの部品の中の水抜きもしておいて下さい」
と言って、小雨の中、傘をさしながら説明をして呉れたが、その部品の取り外しの、何んとムツカシイこと・・・・・・!!
そのお兄ちゃまの説明によると、何処かの寒冷地の別荘地で、冬季、この部品が凍結して破損したとの事で、出来るだけ、この部品内の水を切っておいて下さい・・・・・・と言う。
・・・・・・僕は、思わず
「ウヘ〜〜〜、こんなにムツカシイのをやれっていうのオ? ネエネエ、お年寄りしか居ない家は、一体、どうするんだい・・・・・・?」
と、ブウタレタけど・・・・・・ホントに、そういったご家庭では、どうするんでしょうネェ〜〜??
![]()
左の写真のボイラー内の奥にある、あの黒い部品を外すんです
この部分には、やっと手が入るくらいのスペースしかなく
この部品たるや、右の写真の様に
奥行きがこんなにも深いんです・・・・・・
説明に来たエンジニアも、この部品を外すのに
かなり苦労をしていました!!
・・・・・・こんな作業を厳冬期にやるなんてエ・・・・・・!!
聊か、身震いします・・・・・・です、ハイ!
午後になると、天気予報の通り、台風 23 号が接近してきた為、物凄い雨が不リア始めた。 雨量は、夜になると益々多くなり、午後8時過ぎ八那池の小池さん夫妻が、オーケストラの楽器の事で、話をしにいらした時、こんな事を言ってました。
「イヤ〜〜凄いですねェ〜〜!! 今、山を登ってくる時に、リエックス通りが川みたいに水が湧き返っていましたよ・・・・・・!!」そう言いながら、ヒュッテの中に入ってらしたご夫妻と、延々、11時過ぎまで楽器と音楽談義に花を咲かせたが、途中、オフ・トークの緊急放送が何回か放送され、盛んに、双子池の裏山で水害が発生したという理由で、各地区の消防団に出動命令が出されていたのが印象的だった。
2004-10-20(水) 台風 23 号 のち 曇 ヒュッテ
ばかデッカイ台風 23 号が、関東地方を掠めて、太平洋上へ走り去った。
・・・・・・今年、10 ケ目だという事で、又、アチコチで大きな被害をもたらしたが・・・・・・・
今回の台風で、ショックな事が一つあった。それは、富山湾で、航海訓練所の練習帆船 「海王丸」 のエンジンが故障して、防波堤の近くに座礁してしまった事である。
この 「海王丸」 は、「海王丸」一世 に続く2代目の二世帆船だが、東京商船大学航海科の卒業前の遠洋航海で、「海王丸」一世 に6ケ月乗船して、ポートランド〜ハワイ を回って来た僕としては、正直な話、聊かショックな出来事だった事を認めざるを得ない。それにしても、あの大型の台風の中、どうして、「海王丸」は富山湾あたりをウロウロしていたのだろうか?
・・・・・・それじゃなくても、帆船に嵐は禁物だっていうのに・・・・
2004-10-21(木) 晴 ヒュッテ 気温(最低= 5℃、最高= 21℃)
明日は東京に帰る日。
・・・・・・そんな事を考えつつ、出来るなら今日中にヒュッテ全体の水抜きマニュアルを完成しちゃおうと、作成に精を出す。昼過ぎ頃までに、前段を完成し・・・・・・午後 3 時。
いよいよ、例の超むつかしいボイラーの部品を自分で初めて取り外してみた。
・・・・・・そうしたら、火曜日に説明に来て呉れた担当者でも、かなり手間取っていたこの部品の取り外し・・・・・・自分でやってみると本当にムツカシイ事が分った。
って、言うのは、大体、この部品自体が、ボイラーの中の・・・・・・手の入りにくい位置に取り付けられている為、中に突っ込んだ手も自由にならない為、アアデモナイ・コウデモナイ・・・・・・と、部品の取り外しだけにも 30 分ほど掛かってしまった為である。
でも、最後には、やっとの事で、この部品を外し終わり、写真を何枚か撮り、スケッチをし、ボイラーのマニュアルを作る資料を集めた。
それから、ヒュッテの中に戻り、マニュアル作成の続きをし、ある程度の目途が立ったので、お茶を飲んで一休み。
午後 6 時、晩ご飯のオカズの買い出しに行こうと思って、家の前に駐車してあった、愛車の フォルクスワーゲン・ゴルフ・カブリオレ に乗り込んで、エンジンのスイッチを入れようとしたら、後部座席の床が水浸しになっているのを発見し・・・・・・思わず
「・・・・・・何んじゃ、コリャ〜〜・・・・・・???!!!」
と、叫んでしまった。
・・・・・・スワ、一大事・・・・・・とばかりに運転手席から飛び出し、後部座席の床に手のひらを着けてみると、水は右手の手首の上まで漬かるほど溜まっているじゃありませんか・・・・・・????
「エ〜〜〜ッ、ドウシテェ〜〜〜・・・・・・????」
と、大声で独り言を言いながら、何故、こんなに水が溜まってしまったのかと・・・・・・その原因を探し始めたが・・・・・・
アラ、アラ、フシギ、ア〜ラ、フシギ・・・・・・!!@ 窓ガラスは完全にピッタリと閉まっている床上浸水
A 天井の幌の裏側も全く濡れていない
B 後部座席のシートも全く乾いている
C 前の座席も全て、何処も濡れていない
D 前の座席の床は後部の半分くらいまでが濡れているだけ・・・・・・って、いう状況で、その原因を特定する事がどうして可能だろうか?
残念ながら、僕の脳みそでは・・・・・・どうしてもその原因が思いつかなかったのである。でも、今は、そんな原因の詮索などはどうでもいい。
兎に角、一刻も早く、水を汲み出し、タオルで水を吸い取り、搾り出しをしなくては・・・・・・
と、いう訳で、シッチャキになって、応急処置をすること一時間半。どうにか、こうにか、水が無くなった (と言っても、床の織物は、まだまだグチャグチャ) ので、エンジンのキーを捻ってみると、エンジンには全く異常はない模様・・・・・・
この時点になると、さすがに、今朝からの一連の作業で疲れ切っているのに気が付き、急遽、晩ご飯は外相に切り替え、山を下りて、「風とり」 で夕食をとってから、ヒュッテにとって返し、明日の予定をある程度、まとめてからベッドに入ったらバタン・キュ〜〜で、寝入ってしまいました・・・・・・トサ!
2004-10-22(金) 晴 ヒュッテ
朝食後、何はともあれ、車の後部座席のマットレスを引っ張り出して、ベランダの手摺りに掛け、あとは、再度、床の織物にたまっている水をタオルで吸い取って、搾り出し・・・・・・を1時間ほどやって、ヤレヤレとひと息をつく。
その後で、改めて、どうやって水が車の中に入って来たかを考えてみた。
@ 車が止めてあったのは、家の前の道路(幅員 約 6m)のアスファルトの路上
A アスファルトの傾斜は、約 5°
B アスファルトの上に散っていた枯葉るいは、スッカリと流されている
C 我家の前の道は、ずっと上からの斜面の中途にある
D 昨夜の小池さんの話によると、道は川のようになっていた由
E 我家の車の地上最低高は、13cm しかない。等々を考え合わせると、川の様になって上のほうから流れてきた水が、障害物の我家の車に突き当たり、水嵩が増して、左右のドアの隙間から流れ込んだか、床下の隙間から流れ込んだに違いない・・・・・・と判断するに至った次第。
といっても、床下の隙間から流れ込んだとはチト考えにくい・・・・・・て、言うのは、もしそうだとしたら、周りの水が引いた後は、後部座席に流入した水は、おなじ隙間から、外に流れ出るはずだからである。
・・・・・・とまあ、色々な事を考えたが、そんな事をしていても時間が経つばかり・・・・・・!!
最終的に、今日の東京行きは無理だという事が分り、家内のほか2〜3箇所に電話を入れて、明日の予定を来週以降に延期して貰うことにして、今日の帰京を取り止める事にした・・・・・・まったく、ホッ の一瞬でアリンシタ。
2004-10-23(土) 曇 ヒュッテ 気温(最低= 4℃、最高= 16℃)
午前中、自動車の保険会社に電話を入れ、水害報告をする。
@ 水没により、カーナビ本体が全く使用不可能になってしまったこと
A 床の織物が水浸しになっった為、交換か完全乾燥をしなくてはならない事
B 電動窓ガラスがスムーズに動かなくなった事
C エンジンのギア切り替え時、ガクンと衝撃が入るようになった事
D 幌開閉のモーターの動きがスムーズでなくなった事・・・・・・保険会社のl担当者の応対は、とても感じがよかった。
復旧、修理の費用が嵩むようだったら、初めて保険をしようするつもりだけど、保険というのは、どの程度まで、もって呉れるのだろうか?
午後6時過ぎ、震度3〜4程度の地震があった。
と、思ったら東京の家内から電話があり、そちらはどうですか?・・・・・・と聞いて来た。
「いや、別にたいした事はないけど、どうして?」
と聞くと、新潟の方では、かなり地震が大きかったらしい・・・・・・との事。
テレビの移りが余り良くなかったので、その件はそれで忘れてしまったけど、その後は、どうなってしまっただろうか・・・・・・??
その後は、又、水抜きマニュアルの作成を続けたが、色々な図面などを 15年前に作成したマニュアルから切り取ったりしていた為、今回の新マニュアルが完成したのは、真夜中過ぎの午前3時。今日も又、バタンキュ〜〜でアリンシタ。
2004-10-24(日) 曇 ヒュッテ → 自宅(都内)
起床6時半、昨夜、寝床に入ったのは朝の3時過ぎだったので、眠ったのは3時間ソコソコ。
・・・・・・ひどい寝不足だったが、朝ご飯を食べると、直ぐに、昨夜完成した水抜きマニュアルを見ながら、水抜きを開始。
お昼過ぎに全てを終る。
昼食は、カップラーメン 2個。
・・・・・・こんな時は、カップラーメンが意外に助けられる・・・・・・感謝、感謝!!午後2時、ヒュッテ発、6時自宅(都内)着。
昨夜はヒドイ寝不足気味だったけど、運転中、眠気に悩まされる事もなく、午後6時、無事、帰宅。帰宅すると、自動車の中の湿気が物凄いので、早速、荷物を家の中に運び込む。
夕食は、家内の作って呉れた暖かい料理。
・・・・・・僕が、ヒュッテで一人で作ったものに比べると、格段に美味しいので、家ってホントにイイナ!・・・・・って、思ってしまう。ご飯を食べてお腹が一杯になると、もう幸せで、お茶を飲み終わると、そのまま・・・・・・イスに座ったまま居眠り三五郎!!
9時過ぎに、
「風を邪くわよ・・・・・・お風呂に入って寝たら?」
と家内に注意されて、ノロノロと立ち上がると、アツ〜〜イお風呂で温まり・・・・・・
そのまま、今日もバタンキュ〜〜〜でした!!
2004-10-25(月) 曇 自宅(都内) 気温(最低= 13℃、最高= 21℃)
午前中、自動車の保険会社に電話を入れたら、日曜・月曜が定休日になっているとか・・・・・・・
なるべく早く修理に出したいと思って、昨日、取るものも取りあえず帰って来たのに聊か残念至極でありんす・・・・・・
2004-10-26(火) 雨 自宅(都内) 気温(最低= 13℃、最高= 18℃)
午前中、フォルクスワーゲン杉並の営業所に車を届けた。
いつも応対をして呉れる川島さんに、浸水事故が起きた時の様子を話して、車を預けてきた。
整備・補修には、暫く時間が掛かるとの事だっけど、ユックリ時間を掛けて直して下さい・・・・・・と言って、車を置いて来た。
2004-10-27(水) 曇 自宅(都内) 気温(最低= 10℃、最高= 15℃)
夕飯のあと、食器を洗っていたら、長男の KR が、
「パパ、見て下さい」
と言って、右手の親指と人差し指と間に、黒ッポイモノヲ挟んで持って来たので、よく見ると、それは、小振りのルリタテハだった。「どうしたの、コレ?」
と、聞いてみると、家内が
「・・・・・・そのルリタテハは、洗濯物にくっついていて、逃げなかったの・・・・・・・きっと、もう直ぐ冬眠が始まるんだわ・・・・・・」
といっていた。ご存知の方もいらっしゃるかも知れないけど、僕は、東京の我家の敷地内(塀に面する道路も含む・・・・・・)で発見できる虫たちの昆虫採集をしている・・・・・・だから、標本箱の中には、蝶、蜂、バッタ、蚊、ゴキブリなど・・・・・・・が収められているが、流石にルリタテハは初めての訪問客である。
僕は、そのルリタテハ丁寧に圧死させ、小さな三角紙に包んだが、近いうちに、必ず展翅をする事にしよう・・・・・
2004-10-29(金) 晴 自宅(都内) 気温(最低= 8℃、最高= 19℃)
午後、一昨日、我家の庭に飛び込んで来たルリタテハの展翅をした。
それを見ていた家内が・・・・・・・
「・・・・・・何年振りかしら? ・・・・・・・パパがそうやって展翅しているのって・・・・・・・」
と懐かしそうに言った。
そう・・・・・・僕はヒュッテでは、よく蝶の採集とか展翅もするけれど、東京の我家で展翅をしたのは、ホントに何年振りの事だろう?
何か、急に少年時代に戻ったような気がした次第である。
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午後6時50分、JR 吉祥寺駅の北口で、高校時代の同学年生の吉田さんと待ち合わせて・・・・・・3ヶ月に一回くらいの割合で、駅近くのシェーキングというピッツァ・ハウスで開かれている、高校時代同学年生の各クラス代表達が寄り合うという集いに出席をした。
彼女 (吉田さん) の言葉によると、この集いに・・・・・・僕が高1の時、同じクラスで大変お世話になった、野田一男という当時の学生が、毎回出席していると聞いたからである。
・・・・・・っていうのは、その当時、本当に勉強の出来なかった僕は、この野田という頗る(すこぶる)勉強の出来る男子学生から、いつも色々な事を教えて貰っていた為、いつかは、アリガトウを言いたいと・・・・・・常々思っていたからである。
・・・・・・
当時の僕が、この野田兄から教えて貰っていたのは・・・・・・英語は言うに及ばず数学や、その他の学課まで、と多岐に渡っていたにも拘わらず・・・・・・僕が聞きに行くと、彼は、嫌がりもせず、本当にヨク僕に色々なことを、丁寧に教えて呉れたものだった。
なかでも、一番、お世話になったのは、簿記の宿題(僕が通っていたのは商業高校でアリンシタ)で・・・・・・簿記の教科書に載っていた一ヶ月間の営業日誌をもとにして、仕訳帳・営業元帳・貸借対照表・損益計算書を作るという・・・・・・僕にしてみれば、兎に角、気の遠くなるようなバカデカイ宿題が出た時の事である。
・・・・・・当然の事ながら、この宿題は・・・・・・到底、僕が太刀打ちできる代物などではなく・・・・・・そのまま放ったらかして置いたから、事は大変である。
宿題の提出日が来ても、宿題を出さなかったのは僕を含めて、たったの3人。
・・・・・・それでも、簿記の先生に注意をされて、僕以外の2人はソソクサと宿題を出してしまったから、後に残ったドンビリの筆者は本当に悲劇の主人公さながら・・・・・・
簿記の時間が来るたびに、僕は皆の前で先生に名前を呼ばれ
「オイ、八岳! ・・・・・・・お前だけだぞ! 宿題を出してないのは・・・・・・!!」
と、大声で叱られる始末。ホントにどう仕様にも、ヤリヨウが無かった僕だったけど・・・・・・・ひたすら、じっと我慢の子を守り続けていた次第!!
・・・・・・ところがである。
世の中は、実に色々な事が起きるもので・・・・・・
・・・・・・その次の週のこと、この野田一男兄が、僕の所にやって来ると
「オイ、八岳! ・・・・・・今日なア、大木先生から宿題が戻って来たんだよ。 だから・・・・・・イイカ・・・・・・お前に、オレの此のノート貸してやるから、早く、誰にも見られないように、持って行けよ! そして、早いとこ、このノート丸写しして、宿題を出しちゃえよ・・・・・・」
と、言って、ソット、先生から戻って来たばかりの簿記のノートを僕に貸して呉れたのである。勿論、僕は大喜びで、野田一男兄のノートを借り、3日程かかって、彼のノートを丸写しして、次の簿記の時間に
「先生、出来ました・・・・・・!!」
と、大威張りで提出した次第である。
・・・・・・すると、簿記の大木先生は
「ソラミロ? 八岳・・・・・・お前だって、やれば出来るんだ! ヨシ、よく頑張った・・・・・・!」
と、褒めてくれた次第である。ところが、次の週の簿記の時間に、先生は僕に件(くだん)の宿題のノートを返しながら、こう言ったものである。
「ヨーシ、八岳! 宿題、ヨクやった! はい、これがお前のノートだ!」
と、仰った(おっしゃった)ので、教壇の先生の所に受け取りに行くと、先生の曰く。
「お前の宿題で一つ分らなかった事がある。 それはだな・・・・・・・仕訳帳の中の数字が3ツも、間違っていたのに、最後の合計の数字だけはキチンと合っていたんだ・・・・・・!! だから、お前は簿記の天才だ!!」
と、言って、笑いながら、そのノートを返して呉れたのである。すると、クラス中が、爆笑の渦に巻き込まれたが、僕には、皆が何故、そんなに笑ったのか、チンプンカンプンでありんした。
でも、これで、僕は晴れて、宿題未提出の責を逃れた訳だけど・・・・・・
・・・・・・そんな事があったお礼を言いたくて、今夜、ここにこうして、この「仲良し会」に出席した僕。皆にうながされて、野田一男の席の隣に座った僕が、
「・・・・・・・いや、オレが今日、ここに出て来たのは、お前の家の方角に足を向けて寝られない程、昔、お前にお世話になった事があったからで、そのお礼が言いたくて、今日はこうして、やって来たんだよ・・・・・・・」
と、言って、上の話を皆んなの前ですると、聞いていた連中の笑う事、笑う事・・・・・・すると、当の野田一男兄は
「営業日誌をもとにした宿題があったことは憶えているけど、オレ、そんな事したっけ・・・・・・??」
と、首を捻ること、シキリ。
・・・・・・それを見ていた、昔の女生徒達が一様に
「そうヨ・・・・・・野田さん、そういうのって・・・・・・・して貰った方は、何時までも忘れないけど、した方は、意外と忘れちゃうものよ・・・・・・!!」
と、盛んに言ってました。・・・・・・てな訳で、今迄、50年・・・・・・の間、いつかはお礼を言わなくちゃ! ・・・・・・と思っていた僕だったけど・・・・・・こんな風に、アルト・カメラード(旧友)の野田一男に会うことが出来、何んの屈託も無く、お礼が言えた事が本当に嬉しく、しかも、昔のまんまの気持ちで、話が出来た事が本当に素晴らしかったと思えてならない。
イイヨナア、高校時代の仲間達って・・・・・・・!!!!
そういう訳で・・・・・今日の一日も、本当に素晴らしい一日でありんした・・・・・・・!!チョン・・・・・・!!
2004-10-31(日) 雨のち曇 自宅(都内) 気温(最低= 13℃、最高= 21℃)
今日は皇居の周りを一周する、「500万人トーチラン」 のイベント。
我家は、竹橋からスタートするグループに参加。AKK 2人でトーチを持って走ること 3 回。
ラン終了後、日比谷公園の野外音楽堂で、レ・ガールなどの出し物などをエンジョイ。午後2時頃解散。
・・・・・・その後は時間があったので、皇居の大手門の奥にある、江戸城の天守閣があった天主台を AKKR 3人で見学した。
僕は、もう70年近く東京に住んでいるけど、この天主台を見るのは今日が初めて!
・・・・・・石垣の下にあった解説によると、江戸城の天守閣は 2代将軍の時代に着工し、 3代将軍家光の時代に完成したと言う。
その天守閣は外部 5層、内部 6層で、今迄のどの城の天守閣よりも高く、その高さは 58m あったと言う。
ところが、完成 19 年後の、江戸の大火の飛び火により焼失。その後は、二度と再建される事は無かった・・・・・・とか。
出来れば、どんな形をしていたのか、絵だけでも良いから見てみたいものである。
江戸城の天主台前にて・・・・・・
僕が着ているのは
Special Olympics の T シャツでありんす。